うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

人生の旅をゆく よしもとばなな 著


重要なことをいろんな題材をきっかけに指摘しているエッセイ集。
昭和40年代ごろの日本といまを並べて、「大らかな時代だった」という表現が何度か出てくる。そういわれるとすごく自分が年寄りのように感じるのだけど、実際の年月に対して人びとの意識の変化の方が倍速で進んでいる。「わたしが子どもの頃には」と言われても「それってそんなに昔じゃないよね」という気がしつつも、指摘のポイントはすごく的を得ている。歴史を刻む実時間とのギャップ、走りグセが抜けずに加速し続けていることへの指摘。



このエッセイが書かれてから6年が過ぎています。
メディアが数字を稼ぐために「精神的魔女狩り」をあおるのと同じようなことを、一般人もインターネットを使ってやるようになった。マイナスの気持ちの掛け算という悪徳を無意識に積む人が増えている一方で、そのからくりからなんとか距離をおこうと工夫をしている人もいる。
パソコンがぐいぐい普及していった頃に「デジタル・デバイド」という言葉がよく使われたけど、いまはなにかを読むときでもなんでも、「情報分解力デバイド」のようなことが起きている。
世の中がなんとなくそうなった今、このエッセイを読んだら、自分の心の奥にあるものがあぶり出されてきておもしろかった。



全体的に、ボヤかれていることの骨子は一貫しています。

  • いつのまにか日本はていねいで気配りがあるというのと、形だけが整っているというのを混同してしまったみたいだ。(「懐かしいもの」より)
  • 日本が今失っているのはまさにそれだ。四季のある独特の気候から自然に生まれた生活のあり方を大切にせず、無理に変えてきたツケを思いっきり味わっていると思う。(「幸福な夕方」より)
  • 六本木ヒルズや丸ビルもすてきだけれど、もしかしたら私たちは単なる広場とか商店街がほしいのかもしれない。買い物では満たされないくらい雑でうっとうしい何かがほしいのかもしれない。そういうのがないから、人間関係が空疎すぎたり、密になりすぎたりするのかもしれないと思う。(「知っている気がすること」より)
  • 関西ばんざいという話でもなくって、東京はせちがらいという話でもない。小さな花のような細々としたくだらない幸せ……そういうものでほんとうの人生というのはできている。進学とか恋愛とか結婚とか葬式とか……そういった大きなことだけでできているわけではない。小さなことが毎日毎日おぼえられないほど、数えきれないほどあって、その中で小さな幸せの粒つぶを感じて、それを呼吸して魂は生きているのだと思う。(「忘れ物」より)
  • このようなことは、このことがけではなくてたくさん、この世にあふれている気がする。相手の不在とか、不親切を前提にして、自分が被害者であることを前提に生きている人がたくさんいるような気がする。(「命の叫び」より)

今年スカイマーク・エアラインが示したサービス・ポリシーをみたとき、わたしは「ああ、ここにちゃんとした考えの人がいる」と思って、親しい飲み友達としっぽりその話をしながら飲んだ。
この一冊に一貫してあるのは、こういう共感。



西洋人と日本人の自立心の違いについて書かれていた部分は、普段外国人とヨガの場面で話す機会の多いわたしには、すごく思い当たるところがあった。

<137ページ 幸福な夕方 より>
先日「8mm」という映画を見た。そして、殺人よりもスナップビデオよりもよっぽどびっくりしたことは、主人公の探偵の夫婦がいかに危険な状況にあろうとも、あかんぼうをひとりで寝かせていることであった。日本ではこれはありえない。そういえば赤ん坊が泣いてからはじめて両親が子供部屋を見に行く映画のシーンがいくつも思い浮かんだ。西洋の人たちの強い自立心の秘密を知ったような気がした。ファンレターにもその違いは表われている。日本の子供たちは、「自分対作者」という視点から手紙を書くが、西洋の子供たちは「自分対その作品」について書いてくる。

多くの国の人が集う場で、日本で暮らす人が「あの人たち(西洋人)は自己アピールがすごいですね」と話しかけてきて、「あれはアピールではないですよ。あれをアピールと思うことのほうが自意識過剰なんじゃないかな」とこたえたことがある。こういうときにはたいがい「そうですかぁ〜」なんて言いながらやり過ごすのだけど、その人は「わたしはあんなふうにできない」と言い出しそうだったので、「話したいことがなければ無理に急いで喋らなくてもいいと思いますよ」と添えた。selfishという単語が第三者視点に立つことで成り立つように、自分と比べた瞬間に発生する感情はとても多い。
そして、日本人的な感情として、自己確認の前にまず人と比べて感情を持つ人がとても多い。実体験から、ここはそういうことではないかと思いながら読みました。



この本は子育て中に書かれたものなので、赤ちゃんを題材にしたこんな話も出てくる。

<155ページ 目が覚めて より>
私が何よりもびっくりしたのは、その小さい手がすごい力で私の指を握ることでも、夜中に何回もおなかを減らすことでも、あんなに小さいのに乳を吸うというむつかしい動きを上手にすることでもなかった。いちばんびっくりしたのは、赤ちゃんが朝起きると、まず笑っていることだ。
朝起きて。横に寝ている赤ちゃんを見ると、向こうもうっすらと目を覚ます。そして、私の顔を見て、にっこりと笑う。いちばんはじめの顔が笑顔だということは、一日のはじまりを何の疑いもなく受け入れているということだろうと思う。
何てすごいことだろう! と私は毎日感動し、そして、自分がすっかり忘れてしまった何かに驚くく。いつか覚えていないほど遠い昔、私にとって朝は楽しいことのはじまり、小さな死からの再生だったに違いない。

シュリ・シュリ・ラヴィ・シャンカール師の教えと同じことが書かれていました。




小説家という職業を大切にしているがゆえに、感情に嘘をつきたくない、感覚のセンサーを鈍らせたくないという意思の語りがあったのがよかった。
小説家を超えて、思想家に一歩踏み込んだ感じで、思いにグイグイ感がある。怒りポイントで共感するのは悪趣味のようだけど、ユーモアは「うつくしきもの」よりも「にくきもの」の共感から生まれることが多いんじゃないかな。


この本は「うつくしきもの」と同じくらい「にくきもの」も語られている。言葉狩りもあげあしとりも年々増えている昨今なので、数年前の時点でここまで生々しく不快感をぶちまけている現代版「にくきもの」は貴重なんじゃないかな。
これが貴重と思えてしまうくらい、等価交換の厳密さを追い求めて天井も敷居も低くなっていく日本の風潮はまだまだ加速しているように思う。どんどんクリエイティブじゃなくなっていく環境整備が進んでる。


「人間らしく、工夫しようよ。工夫する楽しい気持ちを取り戻そうよ」
そんなメッセージが込められているように感じる一冊でした。


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人生の旅をゆく (幻冬舎文庫)
よしもと ばなな
幻冬舎
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