うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

学問の開拓 中村元 著


生誕100年のときに復刊された、もとは1986年の本です。研究や翻訳に対するさまざまな思いやエピソードが綴られています。
まえに「ニヤーヤとヴァイシェーシカの思想」のなかで、「玄奘訳は玄奘訳。漢字をあてはめたもの」と、受動的すぎる読みの態度への指摘があり、わたしはこれを読んでたいへん感動したのですが、この伝記には中村先生が和辻哲郎『続日本精神史研究』にある「日本語は哲学的思索にとって不向きな言語ではない。」という言葉を励みにしている様子が書かれていました。
訳語を選ぶときの考えかたが述べられている部分が、とくに沁みます。

 われわれは平生話をするときには、仏教語をそのまま用いている。「煩悩」とか「因縁」とかいうような語も、特に説明したりしない。しかし外国語で表現する場合には、それらの語の意味内容をはっきり把えていなければならない。外国語で表現しようとする努力は、意味内容の理解につながる。
(90ページ 学問の独創性 仏教徒の出会い より)



インド人自身の残した最も確実なものは何かというと、それは考古学的遺跡・遺品、特に碑文・古銭のたぐいである。文献だと後世の人が手を加えて書き換えたり、一部を加筆したり削除したりすることが、しばしば行われたが、地下から発掘されたものは改変されていた恐れがない。
(153ページ インドのこころ 思想と歴史 より)



 わたくしはこの翻訳にあたっては、仮に耳で聞いても理解し得るように心がけた。これらはもともと耳で聞いて口伝えに伝承されていたものであるからである。そのためには、耳で聞いてもわからない漢訳語は原則として使わなかったし、常用漢字以外の漢字をほとんど使用しなかった。
(177ページ インドのこころ 平易に書くということ より。/「この翻訳」に含まれるのは「ダンマパダ」など岩波から複数出ているもの)



 これら聖典の翻訳を進める中で、おもしろいことに気づいた。漢訳文と原文を対照してみると、シナ民族独特の思惟方法や伝統的価値観によって、文章や単語の原意がゆがめられてるのである。一つ例をあげれば、(中略/この例おもしろいです)。
 総じてインド人のものの考え方には、中国人の理解の及ばぬことが少なからずあったようである。また、西洋人の翻訳も適切ではなく、やはり西洋人の価値観に基づいて、原意がゆがめられているということもあるという事実も気づいた。
(180ページ インドのこころ 平易に書くということ より)

「信じない、疑わない、確かめる。ただし碑文は書き換えられないから信じる」というスタンス。
訳というのは必ずその人の価値観が含まれてしまうものだけど、中村先生はそのなかで感じたことを「日本人の思惟方法」というところまで掘り下げられています。



ほかにも、この本でつい食い入って読んでしまったのが、岩元禎という人物に関するエピソード。夏目漱石の「三四郎」の広田先生のモデルになったといわれている人物です。(以下69ページ〜72ページ 学問の独創性 真の友人とは より)

わたくしは文乙でドイツ語のコースを選んだが、それは当時の日本の哲学界がすっかりドイツ哲学の影響下にあり、学問をやるならドイツといった風潮が強かったからである。(中略)当時の一高には独自の風格を備えた先生が多かった。哲学の岩元禎先生はその最たるものであったろう。独身で酒屋の二階に住まわれていて、朝から一杯飲んでおられ、毅然として世を見下ろすという風であった。

暗闇ってそっちかよ! と突っ込みたくなったり(笑)。「それは今でいうアル中では…」と思ってしまう。【参考:偉大なる暗闇 高橋英夫 著


この岩元禎先生の日本語訳が「独自のもので一般学界には通用しない」と思った若き中村先生が、これまたすごい。

わたくしは覚える気にならなかったので、後日また恐る恐る伺いを立てた。「先生! 答案をドイツ語で書いてもよろしゅうございますか?」ご神託にいわく、「それは構わん」。そこで、第二学期からは答案をドイツ語で書いて、どうにか落第点を消すことができたのである。

岩元先生は偏屈だしそもそもまじめに勉学する学生も少なかったけど、自由の気が横溢していて友人相互の連絡が機密で団結していたという話のなかにあるエピソード。とにかく授業が難しいので生徒が団結したような美談なのだけど、その難しい授業というのがドイッセンの『形而上学要綱』を訳しながらの講義だったという話。すごいのねぇ。


「才能ある人は別であるが、そうではない人は自ら勉め強いることなしには道を切り開いていけないのではないか」(P95)など、凡人に喝を入れる言葉も。「勉強になります」ってへんな表現なんですよね。勉強します、としか言いようがないこの感じがたまりません。
受け取る気満々なだけの態度にきびしい考えを持ちつつ、でも読む人に向けて微細なレベルで浸透圧を計算し、平易さを追求する。すごい先生だわ。


学問の開拓
学問の開拓
posted with amazlet at 16.07.23
中村 元
ハーベスト出版