徳富蘇峰の弔辞がなんと青空文庫にありました。
「日本の将来」は文語体でしたがこちらは昭和二年の弔辞の書き起こしなので、お話を聞いているように読めます。
著名度でいえば、石原裕次郎と石原慎太郎のような感じだったのかな。この喩えも、もうヤングはわからないんですものね、時代は流れます。
自分はそんなつもりはなかったけれど、弟からしてみたらパワハラだったと思う。みたいなことを語っています。
明治十一年私が十六、弟が十一。十六の兄が十一の弟を伴れて京都の同志社に出かけたのである。さうしてどし/\私が教育をした。丁度下士官が新兵を教育する様な訳であつて、下士官の方では当り前と思ふけれども、新兵の方では虐待と解したかも知れない。
こういう見かたは「将来の日本」で西洋の教育について批判している時と似ています。
一方で、自分としては愛情だったけど絶交されちゃったと何度か語っていて、とてもつらそう。
どんな話し方をする人だったのだろう。