うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

意地悪おばさんへの階段の踊り場で

先々週の月曜のことです。

海外に住む同世代の友人から、週末に話せないかと連絡がありました。

週末までなんとか乗り切っておしゃべりをしました。

 

最初に連絡があったときは、わたし更年期鬱かも・・・なんて話だったのだけど、聞いてみるとコトは想像と少し違っていて、「わたしの更年期鬱っていうのはベッドから起きられなくなるとかそういうのではなくて、自分の中にいる偏屈ジジイが、手がつけられないほどの状態になること」なのだそう。

 

よくよく聞くとその思考は、難癖といえば難癖。マナーや振る舞いへの怒りに加え、少しルッキズム由来のものも含まれていたかな・・・。

友人は「ちょっと自分、やばすぎ!」と、メタ視点で自らを恐れていて、第三者のわたしがこうして文章にすると客観的に自己認識できているように感じるかもしれないけれど、その瞬間の “火だるま感” は当人にしかわからないものです。

たぶん体温も上がってると思う。暑い日にこれはつらい。

 

 

  *   *   *

 

 

ところで。バイザウェイ。

偏屈ジジイと友人は言っていたけれど、現実は偏屈ババアです。

ただの性別の違いだけど、されど性別の違いでもあり、人は現実を直視しなくていいように、なんかちょっとポイントをズラしたりする。

 

 

偏屈なおばさんの人生と偏屈ではないおばさんの人生はどう違うのか。

実際はそれはわからないのに、なぜ恐れるのか。

 

友人は一例として、現地(彼女の住む国)の自堕落な人がいかにもハイカロリーな物を楽しげに食べているのを見るとイライラが暴走すると言っていました。

そんな彼女はおかしいのか。日本人の感覚でいるときなら普通?

話を聞いているうちに混乱してきました。

 

わたしはここでわざわざマザーテレサの言葉(思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから)を持ち出すつもりはありません。

わたしはこの話を聞きながら、彼女は自分自身の中で ”多様性許容社会での振る舞いのルール” を急ごしらえで身につけようとしすぎなんじゃないか、精神の適応スピードと合っていないんじゃないかと思いました。

そして、それはわたしにもある。

 

 

  *   *   *

 

 

彼女の思考が意地悪なおばさんであるなら、わたしには別の意地悪なおばさんの法則があります。

この日、そのうちのひとつを披露しました。

「えー!」と大きな声で驚かれました。

 

 

わたしは若い女性がベビーカーのようなものを押して前を歩いていて、近くで見たときに中に犬が乗っていると攻撃的な思考が湧き起こるのです。子育てをする日常を送る人へのリスペクトがくるりと反転して、「歩けや、犬!!!」という気持ちに変わる。

人間の赤子に負けないほど超超超ラブリィ♡な見た目の犬であっても、そんなの関係ねえ!

犬は歩いて棒に当たったりしてくれないと、わたしの想定世界にさざ波が立つ。

そういう瞬間を幾度と経験してきました。これはなんの八つ当たりでしょうか。

 

 

そしてその瞬間に、自分は犬という生き物に対して、人間を散歩に連れ出す健康推進者としての合理的な役割とワイルドネス、それに加えてほどよいマヌケさという、絶妙なバランスを期待していることに気づくのです。

毒づきはあくまで、途中の思考。嫌悪反応の次に来るものです。

 

 

わたしはそれを毒ではなく価値観と捉えます。

それが身近な誰かにインストールされたものであることに気づくこともあります。

自分を知るきっかけとしてこういう瞬間がある。そういうものだと思っています。

 

 

  *   *   *

 

 

さて。ところで。バイザウェイ。

「更年期を上手に乗り切りましょう」という本は、この時期はこういう仕組みでイライラするものですと、脳とホルモンの関係をわかりやすい図解とともに見開きで語ってくれます。

教科書的な相談場所へ持ちかけると「この時期はよくあること」で片付けられてしまいます。

だけど実際のところ、当事者に必要なのは「ひみつの思考」を吐き出せる場です。

 

 

平成の時代の中盤まではイライラの羅列がお笑いのネタで共有されていたけれど、令和の時代は反対側(弱者側)の視点を置いて、両論併記の構図でリスクヘッジをする。

毒性監視の範囲が拡がっています。

 

 

だからわたしはそんなとき、

心の中で

 

 

 悲しいとき~(悲しいとき~)

 すれ違った若いお母さんが押しているベビーカーに

 ブランド服を着たチワワが乗ってたとき~

 

 

 (悲しいとき~

  すれ違った若いお母さんが押しているベビーカーに

  ブランド服を着たチワワが乗ってたとき~)

 

 

マントラのように唱えます。

この音節がわかる世代だから。

このゆったりとしたバイブスは、本からは受け取れません。

 

 

教科書的な対処法じゃ足りない。

それが、現実を生きる現在のわたしたち。

意地悪おばさんへの階段の踊り場で話せてよかった。立ち止まってみないと点検できないもんね。

こういうリアルな “ちょっと立ち話” みたいなのがないと、猛スピードで “教育” されすぎてしまう。大人になったらこういうのってなくなるものだと思ってたけど、想像した未来と違っていました。

概念は時代の変化で伸び縮みするから、心を開いて中身を整理して置き直す、そういう時間がないと感情の泉が枯れる。

 

この日はなんだか心の灌漑用水工事をえっさほいさと、ときどき背を伸ばして腰を叩きながらやっているような、人間らしい湿り気を取り戻す時間でした。