うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

桃尻語訳 枕草子〈上〉  橋本治 著

ヨーガ・スートラも、この桃尻語訳・枕草子みたいに「さーて、ヨガのこと話すわー(1.1)」「ヨガ、心・動く・コントロールっ!(1.2)」のように訳したらすごくわかりやすいと思うのだけど、そういうのはない。バガヴァッド・ギーターは鎧先生の訳がかなり松尾芭蕉っぽくて雰囲気があるけれど、もちろん基本はみんなまじめ。そりゃそうか。
でも古典て、どれもこんなふうに読むとおもしろいんですよねきっと。とくにハタ・ヨーガの教典なんてそうじゃないかな。「亀仙人訳 ゲーランダ・サンヒター」とかあったらめちゃくちゃ読みやすいと思うのだけど。実際語尾を勝手に「なのじゃ」にするとめちゃくちゃ身体に入ってきます。(参考

 

この枕草子は、読んでいるときの脳内再生がなんとなく桃井かおり、あるいは石野真子という雰囲気。バブルよりさらに前の、昭和のギャル語訳です。読んでいるうちに清少納言が友だちとしか思えなくなってくる。なにこの人めちゃくちゃおもしろい! やっぱりおもしろい!
古文で枕草子の「うつくしきもの」「にくきもの」の後者を読んだときに薄々そう思っていたけれど、想像をはるかに超えています。第六十七段に「不安なまんまのもの」というのがあって、そこからリストアップが始まるのですが、ひとつめがいきなり

十二年間山籠りの坊さんの女親。

とくる。
すごいセンス…。

 


教科書に載っていた「にくきもの」も、やっぱりいい。この訳では「イライラする!」と訳されています。
なかもこのふたつがいい。すごくいい…。(いずれも第二十五段から)

眠いなァって思って横になってると蚊が細い声でわびしそうに自己主張して、顔の辺を飛び回ってるの! 羽風さえ身分相応にあるのがホント、すっごくイライラすんのよォ!

なんでも嫉妬して自分のことブーブー言って他人の噂して、ほんのちょっとのことでも身ィ乗り出して聞きたがって、教えないのを恨むわ文句言うわ。あと、ほんのちょっと聞きかじったことをさ、自分が初めから知ってることみたいに他人にもベラベラ喋りまくるのって、スッゴくイライラする!

もとの文章は【ものうらやみし、身の上嘆き、人の上言ひ、露塵のこともゆかしがり、聞かまほしうして、言ひ知らせぬをば怨じそしり、また僅かに聞き得たることをば、わがもとより知りたることのやうに、異人にも語りしらぶるも、いとにくし。 】
これは、この訳じゃないと理解できなかった。平安時代から宮中でひとりの女性が確実にイライラしていたのたと思うとホッとする。なぜ。

 

清少納言の職種は、いまの感じでいえば皇居の中に住んで働いてる人みたいなイメージ。だから皇居のお仕事エッセイみたいな感じなのだけど、そんな人が、人事異動のシーズンに少しでも自分の評判をあげようと動き回る人のことを書いたり、御仏名の次の日に地獄絵の屏風絵を見せられて気持ち悪さがすさまじいとボヤいていたり、かわいい子供がイチゴを食べてる姿に「きゃわいいいい---」と興奮している。


仏教ネタもめちゃくちゃおもしろいです。

中宮職の御曹司(おやくしょ)にいらっしゃった頃、中の廂でお経のマラソンがあるんで、仏様なんかを掛けさしていただいて、お坊さん達がいたっていうのはモチロンのことだわね。
(第八十二段の冒頭)

お経をずっと唱え続けるイベントってこんな昔からやってたんですね。わたしは高野山の涅槃会を見たことがあるのですが、まさにマラソン、というか駅伝みたいだもんなあれ…。


以下は、まるで有名なイケメン講師のヨガのワークショップに行く人を描写しているかのようです。第三十段の全文訳です。すごいよ…。

説経(レクチャー)の講師(センセイ)は顔がいいの! 講師(センセイ)の顔をじっと見つめちゃうからさ、ホント、その言ってることの有難味も感じられちゃうのよねェ。よそ見してればうっかり忘れちゃうからさ、ブ男は罪だと思っちゃう(こんなこと言っちゃいけないのよね。ちょっと年なんかの若い内はこんな罰<バチ>が当たりそうなことが書けたんだろうけどさ、今は天罰はすっごくこわいわ)。あと、「尊いのよォ」「信心深いんだからァ」とか言って、説経(レクチャー)があるっていうところはどこでも最初に坐ってるのなんかさ、ホント、やっぱりこういう悪いこと考えてる方としてはさ、「そんなにそうまでしなくたってェ」って、思えちゃうの。

あなたが1000年前にもう死んでるなんて嘘でしょ!

 

 

この本は註釈(コメンタリー)もすごくて、この註釈を読んでいるだけでかなり平安時代の感覚に近づけます。こんな解説があります。

 ところでさ、五節会なんてもうみんな忘れちゃってるでしょ? 五節句ばっかりでさ。という訳で ── 言っちゃってもいいかな? ── 日本人て、自分の安全ばっかり考えて、みんなの安心てのを考えなかったのよ ── それでもズーッと日本て安泰だったんだから、ヘンな国ね。まァ、自分のことしか考えなかったから、途中で "国家主義者" なんていうヘンなもんが出て来て日本を戦争に巻き込んだのね。
(第二十一段 註より)

お粥食べたり草餅食べたり、現代人は個人的な健康方面の習慣しか残してないでしょと、その心のありようを指摘する社会派の註釈。

 


この本を読んだのは、同じ著者の以下がきっかけでした。

人が社会の中でその立場を考え、行動するときの思考についての説明がとても気になって。
この本では枕草子というエッセイを書いた清少納言を通じて、女性の特権・自由への推察がされているのですが、以下のようなことはまさに、ほんとうに、実感としてわかる。(以下、下線のある部分は本文中に強調点のついている部分)

 事態の裏を知っていて、彼女は "賛美" という形で逃げたのか? ということになると、やっぱり私は、それもあまりに近代的な物の見方のような気がしてしまう。一番ありそうなことは、詳しくは知らないのでホンのちょっとだけ事件の裏は知っていたけれどもそれとは全く関係なく、ただ素敵な公家達を見て「素敵♡」と思ってしまった、という……。これが一番正直な女性の感性というものではないでしょうか?「知ってるけど、でも関係なくってェ」というのが、男の目から見た女の平然たる自由なのではないでしょうか 。
 貴族の世界は政治の世界ですから色々なことはある──あるけれども、それとは別に、素敵な男は素敵であるということが平気で浮き上がって来る。その平気で保留にしていられる、知らないまんまでもいられるというのが女という特権的な立場の本質ではないかと思うのです。
(解説・女の時代の男たち 1 メンズ・ノンノの時代 より)

わたしがいま盛んに女性たちが声を上げていることについて「ミーも!」という気持ちに一直線にならない理由は、わたしのズルさは、まさに今後この種の正直さまでもがトレード・オフとして奪われるのがこわいから。
女性がマイナスの下駄を履かされていることを知らないまんまってことにできる男性の自由さを想像できるのはなぜか。たぶんこちらにもなんらかの特権があると思うから。この感覚を、はじめて言い当てられた気がする。
だって清少納言は、こんなことを書いています。(以下、第二十八段から)

退屈なときに、すっごくそんなに仲もいいって訳じゃないお客さんが来て世間話をして、最近の出来事の素敵なのもイライラするのもヘンなのも、誰彼の話でも公(パブリック)と私(プライベート)の区別を曖昧にするんじゃなくしてちゃんと聞けるように話してるの──すっごい満ち足りてる気がする。

これを「満ち足りてる」と清少納言は書いている。いまの感覚で言うと、「ポリコレ的にセーフな範囲で特別仲がいいわけでもない人と気持ちよく楽しく世間話ができるって、なんてすばらしいことなのだろう」と書いている。
細かい事情はわかっていなくても、わかるんだ。なにがすばらしいかは。──という気持ちがこの時代の女性にあったということ。


宮内庁勤務のOL」なんて仕事はないけれど、でもほんとうにそんな感じで読める。すごいわ。

桃尻語訳 枕草子〈上〉 (河出文庫)

桃尻語訳 枕草子〈上〉 (河出文庫)