少し前に『現代ヨーガ論』を読みました。
そのあとで同じ著者の2021年の本『現代スピリチュアリティ文化論』を読んでみたら、自分の中でしっくりきていた部分とそうでない部分が見えてきました。
この本ではアメリカやドイツに加えて、イギリスでのスピリチュアリティの論じられ方も知ることができました。
イギリスでは宗教的価値観の減退を補完するかのように「ヒューマニズム」に注目する流れがあるそうで、なるほどそういうバランスの取り方をするのかと興味深く読みました。
これまでヨガ周辺のいろんな本を読んできましたが、今回はこんなことを思いました。
- 医療の現場で、ことばとして避けられる「スピリチュアル」の話
- ストレスが減ったら幸福度が高まるのだとしても
- インドの人にとって「祈りは祈り。運動は運動」そりゃそうだ
- 「挙動+精神性」の教育スタイルを受け容れやすい日本人
- 余談:エックハルト・トール氏とユヴァル・ノア・ハラリ氏の「自我」についての観点
医療の現場で、ことばとして避けられる「スピリチュアル」の話
マインドフルネスを医療現場に導入したジョン・カバットジン氏が「スピリチュアル」という言葉を使うと「スピリチュアルなもの/そうでないもの」の境界を意識させることになり適切でないと考えているのは、わたしもその通りだなと思います。
心身の痛みに気持ちが向きすぎることから抜け出すために「マインドフルネス(瞑想やボディスキャン)」は有効だけど、そこにそれ以外のものをくっつけると除外思考がセットになって、視野や対応策を狭めてまた苦しいループにハマりそうです。
ストレスが減ったら幸福度が高まるのだとしても
本の中に、西洋の三大幸福論(スイスのヒルティ、フランスのアラン、イギリスのバートランド・ラッセル)への言及がありました。この部分を読みながら、ヨガでは「幸福度」について論じていないなと、あらためて思いました。
苦しみを取り除くことについては論じているけれど、それで幸福度が「高まる」という考え方じゃない。
ヨガが楽しいのは、身体が気持ちいい瞬間を全身で記憶しているからなんですよね・・・。
幸福を「度」として量や高さで測って獲得しようとした瞬間から成果主義が始まってしまって、自尊感情を満たす快楽と区別がつきにくくなります。
インドの人にとって「祈りは祈り。運動は運動」そりゃそうだ
“ヨガの体操にスピリチュアルな意味づけをするのは西洋人の練習者が行ってきたこと” という根拠のひとつとして、2008年のドキュメンタリーフィルム内でアイアンガー氏が以下のように語っていることが紹介されていました。
「1950年代まで私は純粋に自分の健康のためにヨーガを実践していた。スピリチュアルな事柄に関心を持ったのは1960年代以降のことにすぎない」
以前どこかで、アイアンガー氏が60代でもハンドスタンドからブリッジ、そして逆に戻る(チクタクという動き)で「練習してたらこんなにできるで~」とフィジカル強者っぷりをアピールされていた動画を見たことがあります。
ああいう気持ちはボディ・ビルディングで年齢の概念を超えていく純粋な探求意欲そのものに見えるので上記のコメントも「そうだろうなぁ」と思いながら読みました。
哲学の要素は日々の祈りの行為の中に含まれているから、ことさらアーサナの練習とスピリチュアリティを紐づける必要なんてない。
それがインドの人の感覚なのかも。とあらためて思いました。
インドの先生って、だいたいそんな感じじゃないですか? わたしの見てきた先生たちはそうでした。
「挙動+精神性」の教育スタイルを受け容れやすい日本人
ことさらアーサナの練習とスピリチュアリティを紐づけて語る必要がないという点では、別の視点で日本人にも似たことが言えます。
「柔よく剛を制す」とか、日本人は子供の頃からこういうフレーズに触れる機会がいですよね。わたしはそのフレーズをアニメ『YAWARA!』で刷り込まれました。
さらに前には『西遊記』を通じて道教と丹田信仰がインストールされていました。
映画『ベスト・キッド』を観ても、西洋人が受ける感銘に対して、たぶん日本人は「だよね」って感じで、所作と態度の反復練習を「新鮮な逆転の美学」とは捉えません。
だから「マインドフルネス」を理解しようとしてもピンとこない。何か痛みや疾患を抱えていない状態で「勉強」の意識で捉えると、かえって混乱しちゃう。
* * *
この本ではポジティブ心理学が「良くも悪くも自己責任」の社会を支える弊害について述べる意見も紹介されており、やっぱりそうだよねと思いながら読みました。
わたしはここが、宗教や福祉とスピリチュアリティ文化の境目のような気がしています。
この本は日本語化されていない論文から著者のフィールドワークまで、多くの情報を元に書かれています。
わたしが手元に持っていながら読み進められない本の背景が見えたのも収穫でした。
10年以上前に人からもらったエックハルト・トールの本『ニュー・アース』が書棚にあるのですが、どうも気持ちが乗らないまま積ん読になっていたのです。
これを機に読もうという気持ちよりも、読まなくていいかなという気持ちになったりして。
という流れからの
余談:エックハルト・トール氏とユヴァル・ノア・ハラリ氏の「自我」についての観点
この本の終盤に、ユヴァル・ノア・ハラリ(歴史学者)が20世紀に反映した宗教として「ヒューマニズム(人間至上主義)」を挙げ、21世紀には人間を聖なるものとするヒューマニズム思想の基盤が根底から揺らぐことになると言っていることについて紹介されていました。
そしてこれがエックハルト・トールの唱える意識とどう共存していくのか。
そんな問いで締めくくられていました。
ここはついていけなかったので、Microsoft Copilotに相談しました。
わたしの問い:
自我からの解放という点で、トールさんとハラリさんの主張は似ていますか?
AIの回答:
エックハルト・トールとユヴァル・ノア・ハラリは、アプローチは異なるものの、「自我とは何か?」という問いに対して深い洞察を持っています。そして、ある意味で“自我からの解放”というテーマにおいて、共鳴する部分もあるんです。
🌿エックハルト・トールの自我観
- 自我とは「思考が作り上げた幻想の自己」であり、過去の記憶や未来への不安によって構成された“かたち”にすぎないと考えています。
- 真の自己とは、思考の奥にある「意識そのもの」であり、プレゼンス(今ここにある存在)を通じてそれに気づくことができる。
- 自我からの解放は、静寂の中で“根源の私”に触れることによって起こるとされます。
📘ハラリの自我観(『サピエンス全史』『ホモ・デウス』など)
- ハラリは、自我やアイデンティティを「物語」として捉えます。つまり、人間は自分自身や社会を理解するために、物語を作り、それを信じて生きているという視点です。
- 彼は「自我は脳が作り出した幻想であり、実体ではない」と述べ、瞑想を通じてその“物語”から距離を取ることの重要性を説いています。
- 実際、ハラリ自身もヴィパッサナー瞑想の実践者であり、思考や感情を観察することで「自分とは何か?」という問いに向き合っています。
🍃共通点と違い
観点
ユヴァル・ノア・ハラリ
自我の定義
思考が作った幻想
脳が作る物語
解放の方法
プレゼンスと沈黙
瞑想と観察
アプローチ
スピリチュアル・哲学的
科学的・歴史的
目的
真の自己とのつながり
自我の構造理解と距離化
どちらも「自我は本質ではない」と見ている点では一致していますが、トールは“静寂の中での気づき”を重視し、ハラリは“知的理解と瞑想による観察”を通じて自我を相対化します。
* * *
上記のAIによるまとめを読んで「プレゼンス」という言葉がわからなかったので尋ねてみたのですが、その回答を読んでも、わたしは「ごめんちょっと何言ってんのかわかんない」という感じでした。
エックハルト・トールの本が読み進められない理由は、どうやらそこにありそうです。