うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

エナジーがローになったことで「元気をもらった」の意味がわかった


エナジーがローという言いかたは叶恭子さまのフレーズから。
先日まで、ここ10年こんなことはなかったな…というくらい、身体が不調な日々を送っていました。年末年始のインド滞在中と帰国後に体調を崩していました。
まったく食べられない、たくさん歩けない、たくさん話せない、少し力めばどこかが痛むだけでなく、尻からなんか出てきそうで怖い。そんな日々。ガラスのハートならぬ、ガラスの臓器。


朝に帰国してその日から仕事だったのですが、こっそり生きるかのようにいろいろそぉ〜っとこなし、翌日のヨガクラスも自分的にはそぉ〜っとリードした感じなのですが、終わったら元気ビンビン! みたいな感じになっていて、こんなフレーズは昭和のオッサンみたいでほんとうにどうかと思うのですが元気ビンビン! 何度タイピングしてみても、なんだかダサくておもしろい。



  びんびん!



ああこれが世にいう「元気をもらった」というやつかと思いました。
まえに「【誤】元気をもらいました 【正】元気が出ました」というのを書いたことがあるのですが、いままで人からやる気をもらうことはあっても、元気をもらう感じではないなぁ…と思っていました。よくインストラクターさんがブログに書いている「わたしもみなさんから元気をもらっています☆」というようなああいう感じが、あまりよくわからないと思っていたのです。
わたしはヨガのときは脳内が半分英語になるので、ああ今日も動いたな肉袋friends, yes肉袋! we are肉袋!! というような感じで、心地のよい疲労感や余韻を楽しんでいます。


でも先日、わたしのエナジーはローでありながらも「もう動きたかったんだよぉうぉうぉう」という人々の身体エネルギーが循環する空間に身を置くことで、自分の臓器の中で停滞していた流れがパチンと変わったのを感じました。
びんびん、といったら電気が流れる感じですが、それまでのわたしはインドの大気汚染にやられて呼吸器も疲労しており、「締め切っていた家の窓を全開にして換気した」「改築後の建物の蛇口をひねって水を流した」というような、そんな感じと似ていました。身体は魂にとって最小単位の家なのだと、しみじみ感じました。
そしてこの身体は、交換と循環のなかに置かれた管の集合体であるのだなぁということも、ありありと感じました。



「元気をもらった」には、どうやら二種類あるようですね。
ひとつは今回わたしが感じたような、「エネルギーが通った」という感じ。もうひとつは、「くもりが取り除かれて輝きだした」という感じ。
インド哲学全般では後者のほうがよく語られますが、ハタ・ヨーガの教典に書かれている技術は前者のことが中心です。あらためて、アーサナの練習の効用を感じました。


「元気をもらった」と言われても、これは定番あいさつフレーズ? くらいにしか思っていなかったのですが、そうではないのだということもわかりました。これまで練習の帰りに「元気もらいました〜☆」と言われても、ほよよ? という顔をしていて、ごめんなさい。今後は「んちゃ☆」という反応をしようと思います。
本年もどうぞよろしくお願いします。