うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

内側のエネルギーを自家発電すること

少し前に、わたしが初めてヨガを教わった、インドからやってきた先生の話を書きました
わたしはいまでも時々、先生の鋭い目つき、大きな声、「Wait! 待って。ゆっくり、ゆっくり」というフレーズがとにかく耳に残っていて、性急な挙動に厳しかったことを思い出します。
おしゃべりが止まらなくなることもあり、いちばん負荷のかかるタイミングで先生がノリノリになると「先生、チェンジ、まだですか?」なんて催促したりして。
そのテキトーさと厳しさの加減は、受信者が発信者に対しておもねりや正しさを求めすぎるコミュニケーションではまず無理というか、毎日が運だめしくらいの気持ちで楽しめないといられない。日本にいながらインドのルールに慣らされる感じでした。(わたしにはそれが合っていたようです)

 

 

さて。思い出話から本題です。
わたしは今年からこの本を読んでいます。
先に思い出話を書いた先生から習ったヨガのルーツにつながる本でもあります。

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ヒンディなので、辞書を引きながら読んでいます。
この本の中にある、「クリヤー・ハタ・ヨーガの18のアーサナの練習をする際に個人が注意すべきことを以下に述べます」と前置きされた8つの共通事項の説明の中に、「ゆっくり、ゆっくり」に該当するフレーズが何度も何度も、いくつかの言い方で出てきました。

その度に、わたしの先生はさらにその先生からこれを口すっぱく言われてきたのだろうな、と想像します。

 

この項目の6つ目の中に(わたしの理解なので訳の正確さはあやしい前提ですが)、以下のようなことが書かれていました。

内側からエネルギーが流れ上昇するようになるほど、すべての日に、アーサナにそれぞれ違うコンセプト(精神の形)が現れ、それを引き受け、身体は毎回様々なレベルの栄養を得ます。

ヨガの練習がほかのエクササイズと違うと感じるのは、まさにこの「コンセプトが現われる」とか「栄養」のように、まるで木に実がなるような自然現象のように扱うところです。
伝授のされ方も「こうするために、こうする」という言い方ではなく、こういうアクションの継続でこれが顕現するという言い方が多いのは、いかにもインドのヨガの書物という感じがします。


日常でも、様々な物事に直面する際に、自然にそれを自分ごととして捉えられる時とそうでない時があります。自分ごととして捉えられるときは、コンセプトが現われたという感じがするし、そうでないときは、めんどくさいことのカテゴリに入れようとしてしまいます。


自分のなかに現れたものを引き受けることと、内側からのエネルギーの相関関係を追求することはヨガの教えによく見られる自己責任論で、忠誠心ありきの根性論とは違うもの。

こういうものすごく微妙な「中間の葛藤」に、ヨガに限らずインド思想は示唆を与えてくれます。30歳を過ぎてこういうものに出会って「新しい!」と感じたということは、どういうことだったのか。わたしはまだそれを自分の中で言語化できずにいるのですが、そのことを考え続けているから、今日もこんなことを書いている。

 


先生から Wait! と言われると、”急ぐ気持ちがどこから起こるのか” を自分で考えろと言われている気がして、それは散漫なマインドを外部のせいにさせない厳しさを感じる瞬間でした。エネルギーを自家発電・保持したまま、適切な時を待たなければいけない。

態度の躾の手前に「エネルギーの自家発電」があるところが、ヨガの特長であるよなぁと、最近つくづく思います。