うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

ヨガにチャレンジとかしている自分が好き。だけでは続かないものだから

わたしには地方でヨガ講師をしている友人が何人かいます。
自分から他人に話しかけることが得意でないわたしに、何年も前にインドで「ブログの人じゃない?」と話しかけてくれた人たち。
地方へ行くようになってからは年に1回会えるようになって、再会するとヨガクラスの構成についての話になることが多いです。それぞれに考えがあって、そのうちの一人(Aさんとします)は自身がコツコツ練習を重ねる人なので「すぐに難しいアーサナをやってみたいと言う人」に対して葛藤があるようでした。


わたしは「口では謙遜してても、実はやりたい」という練習者の意欲の種のようなものを、いまは日本人的な感覚を鑑みて拾うようにしています。ブレイク・スルーを迎えるのは個人次第なので「理論だけ入れたいなら、入れれば?」くらいの割り切り。
本屋へ行けば自己啓発書と言い切りタイトルの新書が並び、インターネット上も「要約」「方法」ばかりのなか、そういう人が増えていくのはヨガに限らない流れで、ほんの少し先の自分の成長すら信じられない人が多いのだろうと思っています。
情報を得るだけ得てできないままにしておいても、できない理由・やらない理由のフレーズだって、またどこかから拾ってこれる。それはヨガ以外のことでもそうなのだから、指導者が都度自分の記憶から消していけばいいだけのこと。でもそれを、Aさんは残念なことと感じるみたい。
「うちこさんは、あっさりしてるなぁ」と言われるけれど、わたしは「あっさり」しているのだろうか。これは、「あっさり」なの?
それよりもこれは、あれではないの。



 あーあ卒業式でぇ〜泣かないぃ〜とぉ〜
 つめたい人と言われっそお〜♪



名曲が脳内で流れ出す。名曲だ!


指導者としてのスタンスは、Aさんのような伝統的なありかたが理想的なのだろうと思います。いっぽうで、わたしはそういう義理堅さによる弊害も見てきて、「こりゃ根っからの女王気質みたいなのがないと、現代社会ではやっていかれないな…」と、わりと早めに見切りをつけました。
「箱」「組織」「運営形態」「練習者のメンタル」「指導者のメンタル」を総合して見たときに、ほどよい状況を長く保つのは至難の業です。それぞれのコンディションが常に転変するから。


中年がヨガクラスへきて「難しいアーサナをやりたい」というからには、それはそれ相応のことを社会で抱えてきているのだろうと思います。そしてその満たされなさをまっすぐなやりかたで突っぱねられるのは、男性に対しては男性の指導者でなければ無理であることは言うまでもなく、女性に対して女性が対応するのも微妙です。(女性が女性に対して言う「ソープへ行け!」みたいなフレーズがあるといいのだけど…)
男性対男性の実例としては、数年前にある道場の話に感動したことがあります。


ヨガはもともとインドの超・男性社会にあったもので、そしてわたしが暮らす現代社会も根っこは並みの男性社会。そこをいわゆる「シャンティなイメージ」で「なかったこと」にしようとしても、結局あとでヨガクラスの定義から作り変えなければいけなくなります。
昔の沖正弘先生の映像を見ると、難しいアーサナを雑にグイグイやろうとするときのメンタルとよく似た状態に見える男性に対して、質疑応答の時間に「キサマのような人間は…」と思いっきり応対しています。でも今はまったく社会が変わっているし、女性が男性にヨガを教える(かのような体裁というだけで、もちろんリードしかしていません)世の中になっているわけで、インドの古い書物にあるような師弟関係の原型はありません。


冒頭のAさんの葛藤は「そんな手軽な気持ちで、難易度の高いポーズをやりたいなどとリクエストしてくれるな」ということかと思います。わたしも気持ちとしてはわかるのだけど、そこは「できるできないにはコミットしないし。わたし、ライザップじゃないし☆」くらいの気持ちでやっていかないと、自分自身がヨガを伝える行為を恨むような方向へ結局は向かってしまうのだろうし、そっちのほうが避けたい道と今は思います。
難しいことにチャレンジすることが自身や周囲に対する暴力にすぐさま変わってしまう人も一定の比率で出てくるけれど、それはよくある「手段が目的に変わる」というやつで、これもヨガに限ったことではないんですよね…。


まえに「よろめいても大丈夫、と思える生活のためにヨガをしている」と書いたことがあるのですが、人間なにかがどこかでどうにかなっちゃって、マイナスの感情の地引網にかかってしまうこともある。そしてそんなふうによろめいたときに心の立ち泳ぎが続けられず、この世を恨みながら生きている人をわたしはたくさん見てきました。そのたびに軽蔑の感情を抱きながら、同時に自分にもそういう瞬間は過去も今後もゼロではないだろうと感じます。軽蔑の感情が起こるのは、同じ種を持っているからだと思っています。
精神的な立ち泳ぎの手足の代わりをしようとすることは、それはあまりにも微細な領域。年齢を重ねて色々な場面を見るたびにそれをありありと感じることが増えて、ヨガを指導することに対しても「わたしが鍛えかたを教えることができるのは、身体を使った修練くらいのもの」という考えかたになっています。
ヨガに救いを求めるとか、ちょっとどうかしていると思っているところもあるしね。(救われなかったら、どうなっていたの


そもそもなにかとつながっていなければ生きていられない淋しがりのわたしたちは、つながる関係すべてにこの葛藤がつきもので、こんな葛藤をしなくても今日もコツコツ動いている心臓だけが偉大という気もしてくるし、古代インド人もそんなことをどうやら考えていたようなんですよね。
こういうことを、インド人たちは「アートマン」と言って語っていたのです。
(今日の話は「悩みどころと逃げどころ」という本を読んだときに、そういえばわたしもヨガ講師をしている友人とこんな感じで話をしたなぁ…、と思い出して書いものです)