うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

萎縮しないでほしいな、と思う

たまに、はじめて一緒にヨガをする人に「普段はどんなヨガをされているんですか?」と聞くと、「いや、わたしがやっているのは、本格的なのではなくて、エクササイズのヨガなので…」とおっしゃるかたがいるのですが、わたしはずっと「それでいいんですよ」というメッセージを出し続けています。
スマホで見てると、過去記事を探すのってむずかしいんですよね。掘り起こしておきましょう。

  これはずばりそのままのタイトルで書きました。

  日本のヨガの歴史を顧みつつ、書きました。



以下の本の紹介の感想コメントのなかでも、わたしの考え方として少し触れています。


わたしはインドに行ったことがあるしインド人の先生とも交流があるけれど、それはそれ。
ホットヨガは、いちOLとして「あれだけキンキンに冷えたオフィスに9時間もいたら、熱で溶かしたくもなるわ!」と、身体の叫びにマッチしていると感じる。「余剰エネルギーを燃やす」という点では、そもそも運動不足の割に食べすぎなわたしたちが寝る時間も確保しつつ運動もこなそうと思ったら、多少強度が上がることになるだろう。と思う。
とにかく、わたしのまえでは「本格的なヨーガ」ではないことを理由に委縮する必要はありません。



で。
逆もありましてね。
先日、インド人の先生が日本でクラスをやるイベントで通訳をつとめたのですが、それに参加した人から



 「ああいう、インドとか本格っぽいのは避けていたのですが、行ってよかったです」



というコメントをもらいました。
彼女はもともと、わたしが冒頭に並べたような考えをすることを理解してくださっていて、どちらかというと実利論的なインド人(ビジネスシーンではこういうインド人に会うことの方が多いですしね)のよさを評価する考えをお持ちでした。
彼女は、


 このニセモノ、いいとこついてくるなぁ


みたいな機微も、主体的に楽しむことができる人。インド人が作る売れ筋のおもしろさを楽しんでいる。
本場・本格・ホンモノをうたうものについては、「この部分のストーリーを大切にしているのだな」というのがわかるもの以外は、"マーケティングとしてのあてこすりの域" でしかないと感じます。
「とにかくインド由来だから本格」ってのは実はすごく難しくて(3000年以上の歴史ゆえ)、インドのヨーガの歴史にもさまざまな転換があります。4世紀のヨーガには修業論としての理論が、11世紀以降のヨーガには神へ近づく道としての身体操法理論が、そいういう側面をはらんだ理論があります。それぞれが横目でチラと見ながら意識しているのは、4世紀は仏教学派(とくに唯識)、11世紀以降のほうは同じヒンドゥー内でのさまざまな神。
そしてこの間に、同じく身体操法も含む儀式を通じて神に近づこうとする習慣を「宗教法」として持つイスラームが起こり、インドに入ってきています。などなどのことは、ヨガの学びというよりも、歴史の勉強です。


そこを踏まえつつヨガを見たら、ヨガの教室が本格本格いうのは、「おにぎり界における米粒のたたかい」。
おにぎりを研究しているわたしに、「サトウのごはんなんです」「無洗米なんです」「レンジでチンしたごはんなんです」「炊飯器で炊いたご飯なんです」みたいに、「本格でなさ」を訴えて委縮されても、


 まだまだこれから、みなさんには
 具や塩加減やノリの話などをしたいのだが!


となってしまう。
まあまあまあ、それはさておき。これから一緒に学んでいこうよ、ってことです。


「インドに行ってきた人=本格」というのは 、「日本女性=貞淑」というのと同じくらい幻想。インド帰り本格派、はぐれ刑事純情派、マーヤーとモーハーのカーニヴァル・アンド・フェスティバル。
そんなもんだと思うので、わたしのまえではどうぞ委縮なさらず。
本を読むのが苦手なかたも、まずはこんなところから!