うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

非合理的な感情の存在を認めると、そこに詩が生まれる

GWに、初めてインドのコルカタ(旧カルカッタ)を旅してきました。

インドへ行ったことはあったけれど、コルカタベンガルという別の国のような文化があって、人の心にもその特徴が見えました。

 

コルカタへ行ってみたいという思いは、10年以上前からありました。

だけどわたしにはそれを踏みとどまらせる事情がありました。行くなら事前に報告しなければいけない人がいました。

わたしが最初にヨガを教わった先生がコルカタ出身のかたで「インドへ行くなら僕の実家に泊まりなさい。マンゴーの木があるよ!」とおっしゃっていたのです。

先生は自分が関知しないところで生徒がインドに親しむことを訝しがるので、インドへ行くことは秘密裏にしなければいけない。そういうところがありました。

その先生が他界し数年が経ち、航空事情がよくなり(参考)、シーズン的には最悪でしたが、このGWに行きたくなりました。

 

 

人々の詩人度が高い

はじめてその場所へ行ってわかったことに、こんなことがありました。

 

 

  ベンガルの人がさりげなく放つ、短い表現のレベルが高い

 

 

ベンガル出身のヨガの先生は言葉のセンスが独特で、生徒たちの間で「定番ネタ」として共有されるおもしろ話やフレーズがいくつもあって(参考)、わたしはそれをずっと先生個人のキャラクターだと思っていました。

ですが現地の人と話をしていると、「なにそれおもしろい!」とパンチのあるフレーズを耳にする機会があって、どうやらこの地域の人の特徴のように感じます。

 

 

コルカタの人はロマンチスト

コルカタの人はロマンチストだと、アブさん(現地のかた)は言います。

わたしがスマホで撮った動画を共有しながらアブさんと話していた時に、こんなことがありました。

 

その動画は、さっきまでわたしに付きまとっていた犬が、華やかな女学生の観光客グループを目にした瞬間に尻尾を振って速足でそちらへ駆け出し、「若い女性たちを見たらホイホイ尻尾を振ってついて行くゲンキンさ」が面白いと感じた光景です。

 

わたしは「ゲンキンやな」という気持ちで撮影し、「これ、オモロない?」と思っていたのです。

だけどそれをアブさんは

 

 

    「彼は急いでエスコートをしに行った」

 

 

と捉えていました。

同じ状況を見ても全く違う意味づけをしています。わたしはそこに志村けん的なものを見ているのに、アブさんはそこにジョージ・クルーニー的なものを見ているのでした。

 

わたしの発言に「感銘を受けた!」と、大げさなリアクションをされたこともありました。

ヤギがゴミの中にある紙を食べているのがたまたま写った動画に「find treasure in the trash」とコメントを添えたときのことです。

わたしの脳内キャプションは「ゴミの中でも、餌を見つけちゃうもんね〜」というノリで、目的語がないと困るから tresure にしただけだったのに、まるで詩のように理解されました。

 

 

ロマンティックは止めないほうが人生は楽しい

人の心の背景に関心を向けることも、自分の好みを押し付けることも、相手から監視と思われそうなくらい干渉することも、びっくりするくらい露骨に自慢話をすることも、そうか、これはロマンなのかと、ふとそんなことを思いました。

 

謙遜を美徳とする日本人が静かに殺し続けてきたマインドを、ベンガルの人は宝物のように扱います。無駄を楽しむという発想とも違う、もっと根本的な不条理を認めてきた人たちが育んだ文化がある。

わたしはインドの中でもリシケシやオーロヴィルのようなスピリチュアルな場所や素朴さを感じる場所を懐かしんできたけれど、コルカタの社会が生み出した血の気の多さと相反しながらバランスするロマンティシズムにも惹かれます。

 

 

インドへ行くことで変わるのは人生観ではなく、自分へ向ける視線

わたしは今回の旅で、自分の中にあるロマンティシズムへの視線が変わりました。生きている間は照れてる場合じゃないんだ、という思いを刺激されました。

 

コルカタはほかのインドの街で見てきたような “癒し” とは程遠い場所でした。

ホワイトカラー・ブルーカラーの区別や、話せる言語と識字能力について教育を受けた・無学の区別が露骨で、競争社会のエグみが濃縮されています。

ヨガをする人が集まる場所でありがちな、君にホーリーネームを授けよう、なんて言い出す聖者風のおじさんはおらず、ベンガル地方にはバウル(詩人)がいます。

 

 

川の近くで楽器を奏でる吟遊詩人のような歌い手。

少し離れて写真を撮らせてもらっていたので、タクシーの運転手さんの指示通りに少しお金を置きに行ったら、「さぁここへ座って」と促され、演奏と歌がはじまりました。

その間、表層的で薄っぺらい人生をなぞっているだけの自分をなじる瞬間が何度かあって、ああそうか自分にはロマンに対する素直さが足りないのだと感じました。

 

 

参考

 

バウルの存在自体は知っていたけれど、こんなふうに身近にいるとは驚きでした。

そして一般社会で生活をしている人も、詩を愛する感覚を持ち合わせてる。

この地域の文化そのものが強烈に印象に残りました。