先日ヨガへの参加連絡をくださったかたが、わたしがこのブログに書いている更年期に関する自己観察記録を前のめりで読んでくださっているとコメントをくださいました。うれしいです。ありがとうございます。
これはわたしがコンスタントにお会いしている方々とのコミュニケーションから感じることですが、更年期は年齢の5つ6つ7つくらいが近い誤差の範囲。いまどき他人の年齢はもちろん訊かないけれど*1、継続的にあいさつ程度の会話をしていれば、誤差圏内はなんとなくわかるもの(笑)。
誤差の範囲を超えるヤンガーなベイベーから(ここでミッチー用語が出てくる世代!)「一緒にいてもまったくそんなイメージがわかない」と言われても、ありがとうというものでもないしね。
「それは態度に気をつけているからです」とお答えするのも、どこに対してかわからないけれど、なんか失礼な気がする。心身にその現象・症状があるにはあるというのが、ただの事実なんです。
先日、わたしのベイベー時代の記憶について書きました。
上記のような話は、似た経験をしている人がけっこう多いんじゃないかと思います。
これはほんの一例ですというくらい、わたしは他にもいろんなことがありました。
んでね。
ここからは、ここ数年で思うようになったことです。
わたしはこの先自分が更年期障害というほどのこともなくその時期を乗り越えたとしても「ヨガをしてきたのでわたしは大丈夫でした」というスタンスを取ることはないだろうと思っています。
今日はその理由を二つ書きます。
理由のひとつ目は、ヨガにはいろんな行為の組み合わせがあって、その奥には願いと祈りがあるから。
呼吸法とアーサナ、アーサナとヨガニードラ、アーサナと瞑想、マントラチャンティングとアーサナなどのように、行為からのアプローチには無数の組み合わせがあります。
そしてそれをなぜやるかといえば、現代では医学的にその効用が証明されたりしているけれど、元々は肉体を魂の乗り物と考えた人たちの願いや祈りがあって、それと並行して精神や道徳や倫理観(人間としての認識)を説く哲学がある。
現代のような医療技術のない時代にここまで探求したインドの暇な人たちってすごいなと、ずっと思っています。
わたしはヨガは意識へのアプローチがベースにあるところがすばらしいと思っていて、乗り物が女性形であったという分岐のところで関係してくるホルモンの働きについても、これから身体を通して見えてくることがあると予想しています。
なのでわたしの場合は「ヨガをしてきたので大丈夫だった」という文脈にせず、「ヨーガの視点で更年期という山をこういうものと捉えた、こんなふうに景色が見えた。見えてる」と、そういうふうに語れるように自己観察を続けていきたいと思っています。
わたしはあらゆるセルフ・メンテナンスについて、それを捧げものとしてやる感覚でいないとおかしな武器になってしまう、そういうところがあると思っています。
なので捧げものの果報を努力の結果として語るときには、自分がそれを強く願って行為してきたのだという宣言・物語がセットになると思うのだけど、更年期の心身はそういうものとも違う。タイミングも、あとでわかるものだしね。
これが、ナウなわたしの感覚です。
もうひとつの理由は、わたしが2020年代のおばさんだから。
先日、妊娠を機にホルモンバランスの乱れを絶賛経験中のヤンガーなベイベー(彼女もヨガ講師をしている)と会って、それぞれ別のステージからいろいろな話をしました。
わたしが友人宅へ行ったのですが、彼女の本棚にあった本のなかに、整体師の女性が「わたしはからだを整えているので、更年期障害はありません。しかし、参加者の皆さんはさまざまな症状を訴えてきます。」と、そういうスタンスで書かれているものがありました。
その整体師のかたが50代後半のときに、このように書いていらっしゃいました。いま現在は70代のかたです。
これを読んで、わたしの場合は自分が更年期障害を経験しなかったとして、こういう視点・発言スタンスをとるだろうかと考えたら、しないだろうと思いました。身体のことだけを語ることはしないなと。ここは、整体とヨガの小さな違いかもしれません。
わたしはいま同世代の女性たちを見ていて、すでに意識のコントロールの面でヨーギーである人が多いと感じます。
自分たちが受験や就職に苦しんできて、40代からは自分の子どもの所属先対策(さらに早い受験)を頭の片隅に置いて仕事をしていたりする。人生のパラレル進行管理×マルチタスクっぷりがすごい。
自分自身は田舎育ちで自然派の考えだったはずなのに、自分の子育てはそうではなくなることもある。そういう葛藤も抱えながら、日々心身をコントロールしながら暮らしています。
「さっきわたし、イライラしているように聞こえてませんでした?」
「大丈夫。ぜんぜん大丈夫です」
と、音声会議中に同時に文字チャットで同世代女性がひっそりと助け合いをしている。仕事の場面での態度のコントロールは、その瞬間に助け合う。これがわたしの周辺の更年期世代のリアルです。
そこには肝っ玉かあさんの武勇伝みたいな語り口の人や、スピリチュアル・グレート・マザーのような口ぶりの人はいません。精神面でこんな助け合いの世界があるだろうかと思うくらい、なんとも言葉にできないような世界を見せてもらっています。
女性たちがヒステリーと評価を下されないように努力をしている。「見ていてぜんぜんそんなイメージがわかない」と言われるように、受験や就職と同じように社会参加できるよう、対策をしています。どんな賢者の集まりだ、これがサット・サンガというやつか……と思うような光景が、現実社会にある。
このように「努力はするけど結果に執着しない」を体現しようと日常的に頑張っている人のなかにいると、社会背景を棚にあげたままヨガの精神論で更年期を語ることなんてできないなと思います。
なので「ヨガと命の母Aとサプリを掛け合わせてるよー」とか、「エクオールチェックしたよー」とか、「ホルモン補充療法も検討できるように10年ぶりに健康診断を受けたわー」なんてことを書いているわけです。
個人差があるといわれているからこそ、「こんなこと書いて意味あるのか」と思うようなことも、解決策は見いだせなくても見いだせないまま書きたい。
いまの時代のいいところは、有名人ではない一般人の “ささやかな変化の感覚” を共有できること。自分の心身が更新されていく、そういうプロセスを記録してみたいと思っています。
パソコンやスマホのOSのアップデートのように、途中で固まっては「この養分入れてよ」「この作業してよ」「これをオフにしてよ」「いま絶対電源切らないでよ!」「今から再起動するわよ!」と言ってきて、対応してまた更新を待つような、そういうことを身体がやりはじめている。
軽く振り回されているけれど、ぜんぶ自分のことなんですよね。
そういうものだと思って、わたしはわたしの記録をしています。
長い話を読んでくださり、ありがとうございました。
「短気は損気」というけれど、わたしは「陰気は損気」と思ってカレー色をまとって日々を送っています。
*1:人生は長いから、ゆっくり時間をかけて知り合っていきましょう