うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

ヨガから始まる ― 心と体をひとつにする方法 ケン・ハラクマ 著(再読)


紹介するのは二度目です(前回の感想はこちら)。ケン・ハラクマさんのワークショップへ行った知人が「ココロyoga」とセットで貸してくれたので、また読みました。
4年前とはわたしの共感ポイントがずいぶん違っていて、自分を知る機会にもなりました。前回の感想の最後に「いま活躍しているヨギさんの本の中では、群を抜いた良書と思います。」と書きましたが、いま読んでもそう思います。すばらしい。何箇所か「いま刺さった箇所」を引用紹介します。

<12ページ ヨガとは無縁の青春時代 より>
いま思い出すと、高校のときが一番アクティブなエネルギーに満ちていたように思います。エネルギーの使い方がわからず、もてあましていたのでしょう。

アクティブなエネルギーについて語るところが、男らしくていいわぁ、と思いました。なんとなく、わたしは20代後半〜30代に精神エネルギーをもてあましていたような気がするので。



<23ページ 北極点で死に対する恐怖が消える より>
 初めて命の危険を感じたのは、北極点を目指してから三日目でした。エネルギーをすっかり消耗してしまって歩くこともできず、「どうしてこんなところにきてしまったんだろう」と、ふてくされた気持ちになっていました。しかし、そのエネルギーすらなくなって、「やれるところまでやったんだから、これで死んじゃってもいいんじゃない」というマインドに変化した瞬間、不思議なことに空に晴れ間が拡がり、体が温かくなってきて、動けるようになったのです。まるで「死んだ」ということを実感した瞬間に、自然が手を差しのべてくれたような感じがしました。

わたしは「ふてくされるエネルギーまでなくなる」という経験はないのですが、「自分の不備を恥じるエネルギーまでなくなる」という経験を夏の高野山でしたことがあります。スケールはずいぶん違いますが、身体の根っこから発現してくるあきらめを感じることは、おすすめのしようがないのでむずかしいのだけど、やはり大きな経験だと思います。



<29ページ IYCがスタートした頃 より>
(以下はオウム真理教の事件の頃のことです)
一時期、そのような宗教団体に入っていた人たちがやって来て、「受け入れてくれませんか」と言われたこともあります。でも、そういう人に限って、何かにすがるように頼っているみたいなところがあって、見るからにエネルギーが暗い。私たちがヨガで伝えようとしていたのは、西洋で広まったヨガを通じて、自分の中をキレイにし、自信をつけ、体を柔軟にし、バランスをよくすることであり、それはとてもパーソナルなトレーニングです。

ここは4年前に引用紹介しようかと思いつつやめたことを記憶しているのですが、やっぱり重要。「西洋で広まったヨガ=エクササイズのヨガなんて!」という思考でアクティブなヨガを否定する人がいますが、そういう人たちも「見るからにエネルギーが暗い」(便乗・笑)。なんでいまこの部分の感想を書けるようになったかというと、この4年間の間に「うちこさんはエクササイズのヨガではなく、ヨーガを深く学んでいて素晴らしい」といって近づいてくる人に何人も会ったから。西洋でどういう心の文化のプロセスが経られたかということを考えたり、自分の言葉で表現しよう葛藤することをしないどこかの偉いらしい人にざっくり褒められてもなぁ。自分の言葉を推敲することも、パーソナルなトレーニングだと思うのです。



<99ページ エネルギーを上下させるバランス より>
「エネルギーの上下にあわせて精神的になったり物質的になったりする」ということだけを言いたいのではありません。ここで私が言いたいのは、体を上と下に引っ張るエネルギーの間で自分がどれだけバランスを取れるか、これが人生を生きていくうえでのクオリティを形成するということです。

ここ、4年前はさっぱりわかっていなかった。ここはこの後の部分が読みどころなので、あえて引用しない!(笑)



<104ページ エネルギーの使い道 より>
 たしかに、呼吸の練習によって能力の高い体、つまり、性能のいい車に乗り替えることは可能です。発火のプラグを磨き、火を点きやすくして、ガソリンをいつでも補給する。そうすると車もシェイプアップできます。しかし、実際にその車をどこに運ぶかは運転手の問題です。体の運転手であるマインドがどういう方向へ変化するかによって、体がどこへ行くのかも、その結果も全く変わってきます。呼吸をすることは、とりもなおさずエネルギーのバランスを整えることですが、エネルギーの方向性、つまり自分の行動の方向性を定める準備をすることでもあるのです。

乗り替えた車で、別の価値観で生きている人たちのところへ突っ込んでいくことのないように、カーナビも装備したいところ。だから聖典を読めってパタンジャリが言ったんじゃないかな、と思う。



<121ページ フィジカルとメンタルの両面で力をつける より>
 ポージングを積み重ねていくと、「この人がやってくれるから、自分はできなくてもいいかもしれない」と、全てを人に頼っていく生き方をしていたのが、「いやいや、自分ひとりでもやってみよう」という方向に意識が変わってきます。これもメンタル面での変化の一例です。ポーズを続けることは、自分の体と心の両方に、一対一で向き合うことを意味するからです。

わたしはこの学びの後に、「自分はできなくてもいいかもしれない」というマインドを振り返る練習をしています。あの頃の自分はどうであったかと過去を見つつ、今でもちょくちょく顔を出すこのマインドに向き合うときに、どんな顔をして向き合っていいやらと。苦手なことをやるときの向き合い方が少しずつ変わってきました。



<131ページ たくさんのポーズよりも、ひとつのポーズを より>
シンプルなポーズひとつでも、そこに適切な呼吸を組み込んでいった方が、精神的な成長のスピードは速いのです。アクロバティックなポーズができる人たちは、ポーズをどんどん追及していくことはできますが、マインドの状態が前進しない人が意外と多いのも経験が教えるところです。ポーズを深めることが簡単にできてしまうと、プライドが高くなったり、競争心がいっそう高まったりする傾向があるからでしょうか。

ここは語尾が疑問形になっていて、たぶん書き方がむずかしかったのではないかな。わたしが思うに、「マインドの状態が前進しない」のディテールは「考えなくてもできちゃうから考えない」ということかと思います。「なんでできないのか」のなかにある「マインドブロック」を見ずにいけちゃう人というのは、他者の気持ちが見えにくい。これは、わたし自身がそういう段階を経てきたのでよくわかります。で、そういうわたしのような暴君がどういうプロセスを経たらいいのかというので悩んだときに、インド哲学に手をつけ始めたらあっさりハードルを1万個くらい並べられた状態になりました。



<159ページ シナリオがないから、ストレスがたまらない より>
 全てにシナリオをなくすこと、それがストレスのたまらない秘訣だと思います。計画を立てることで、がんじがらめになってしまうから、ストレスがたまるのです。物事の成り行きに合わせて自分が動いていれば、ストレスがたまることはありません。ただ、成り行きまかせに動いていくのは、普通に考えてとても不安ですし、現実問題としてそのように振舞うのは社会が許さないでしょう。

このあとに、しかし〜 という文章が続くのですが、ここもあえて引用しないでおく。じゃあどうするのって、そういうのをこのブログで得られてしまってはいけないから(笑)。この先は、バガヴァッド・ギーターにある教えをやさしく書いてくださっています。
時間をおいてくりかえし読むと、沁みる。
本はモノサシ。そんな感じがする本です。