最近ある生徒さんが「うちこさんおすすめのコーラン、読み始めたんですけど、やばいですねこれ。おもしろすぎて……」という感想をくださり、「わかってくれるぅ〜! ぐふふぅ〜☆」と嬉しくなってしまったので、そのおもしろさを今日は熱く語ります。
わたしのコーランは、付箋で「これはギーターのあれと似ている」みたいなメモがいっぱい。
なんというか、この二つの聖典(神)の区別を助っ人ビジネスマンに喩えると
- バガヴァッド・ギーターのクリシュナ=マッキンゼー出身の、たしかになんだかすごそうなコンサルタント
- コーランのアッラー=現場たたき上げ、どんなクレーマーも性根からお見通し。この道20年のお客様センター室長
という感じなのです。
わかりにくいだろうけど、以下を読めばきっとわかるよ。
以下は、ヒンドゥーの聖典「バガヴァッド・ギーター」の2章47節
あなたの職務は行為そのものにある。決してその結果にはない。行為の結果を動機としてはいけない。また無為に執着してはならぬ。
【上村勝彦 訳】
君には 定められた義務を行なう権利はあるが
行為の結果については どうする権利もない
自分が行為の起因で 自分が行為するとは考えるな
だがまた怠惰におちいってもいけない
【田中嫺玉 訳】
武士カーストなのに敵に身内がいるからといって仕事をするのを渋るアルジュナへの、クリシュナの言葉。
結論「いいからやれってことなのよね」と、まあなんとなく納得させられます。
なんだけど、クリシュナも同じことを一緒にしてくれそうなムードはゼロ。
似たような節が、コーランにもあります。上巻の212節&213節です。
結論は同じなのですが、トーンは大違い。
(212節)戦うことは汝らに課された義務じゃ。さぞ厭(いや)でもあろうけれど。
(213節)一体、汝らが自分では厭だと思うことでも案外身の為めになることかも知れないし、自分では好きでも、かえって害になることもあるもの。アッラーだけが(事の真相を)御存知で、汝らは何んにも知りはせぬ。
【井筒俊彦 訳】
あなたいま、ハートを盗まれましたね(笑)。
経験に基づいた先輩からのアドバイス風情でありながら、最後は唯一神の宣言でシめるこのワザに、きゅーん☆ときちゃうでしょ。「自分では好きでも、かえって害になることもあるもの」って、どんだけジゴロなんだよ! たまんないよねー、ここ。
わたし、ぶっちゃけ、クリシュナには恋心が起きない。いつもどこか半分、「このコンサル、大丈夫なんか?」という気持ちが残る(信じろよ)。
でもアッラーは、油断すると恋におちそうになる。まあ失敗してもいいかなという気にさせるなにかがある。なんですかね、これ。で、もう完全に心盗まれました。アッラーについていきます! という気持ちになりそうなところで、舞台裏を見せられるんです。アッラーが、チャネラーのムハンマドにささやく業務指示まで丸聞こえなの! 「こう言うと、今度はこう言う奴がたくさん出てくるけど、きりがないからスルーしとけ」みたいなことをおっしゃる。
せ、先輩! 先輩はこんなにすごいのに、オープンすぎると思います!
もう少し、もったいつけたほうがいいというか、、、
ちょっと安売りしすぎじゃないかと思います!
って、後輩が制止したくなっちゃうような調子。でもブランディングは最強。
偶像崇拝禁止だから、出てきているといっても「アッラー」という文字と啓示だけ。一時的な狂信者に追いかけられて消費されて終わり、ってことにもなりにくい。ブランドが強いぶん、自己都合解釈に利用する人も出てくる。
コーランは「イスラーム=よくわかんない。こわい」という、アメリカ仕込みの偏見で読まずにいると、かなりもったいない書物です。