うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

ヨガの練習中の「無理をしない」の基準

よくヨガの練習の前にインストラクターや講師のかたが「無理をしないで」と言いますね。
これについて、わたしはいくつかの基準を持っています。
細かく書くとポーズや関節の位置ごとにあるのですが、

全てに共通する要素としては

 

 

  • 立位で呼吸を1秒以上とめていない
  • 座位で呼吸を1.5秒以上とめていない

 


これを超えているとき、身体は血流にプレッシャーのかかる状態で、精神は男性性が優位になりすぎの状態と感じます。
ヨガは自分のなかの男性性と女性性のバランスを調整できるようになるすばらしい効用を持っているので、このバランスの見極めに呼吸の観察が役立ちます。

 

<参考>

 

どちらかが優位になること自体は、常に起こっていること。なのでヨガの練習の時間くらいは真ん中を目指そうというわけです。社会生活では男性性が必要な場面ばかりです。

なのでわたしは、「無理をしたい」という気持ちもあわせて観察した上で、無理の基準を設けています。

 

その判断は外からは見えないため、呼吸が目安になります。
これはあくまでわたしの経験からの基準ですが

 

 

デーンデデデ デデデデ
デデデデ デデデ
デデデデ デデデデ
デデデデデデデ

 

 

  呼吸をとめて1秒
  あなた真剣な目をしたから

 

 

です。

 

 

 そこからなにも 聞けなくなるの
 星屑ロンリネス(カキーン☆)

 

 

です。
ほんとうにそこを超えると、そこからなにも聞けなくなって星屑ロンリネス化していく。指示をスルーするモードに入ってしまう。

 

 

なのでわたしが「無理をしない」の基準を明文化するなら
「星屑ロンリネス(カキーン☆)の手前で戻っておいで!」です。

 

 

それにしても。
呼吸についてご説明いただく際の康珍化先生の言語化は格別ですね。
なんたって「金色銀色桃色吐息」ですから。

 

 

おやおや?
おおいに脱線しましたね。
話を戻します。
ヤングも戻ってきて〜。
今からちゃんと説明するから! 基準の話はここからです。前フリが長すぎですね。

 

 

立位で1秒 / 座位で1.5秒 止まればロンリネス

ヨガのポーズには色々なものがあるので、頭の位置が高いもので1秒、低いもので1.5秒というのがわたしの感覚。
手足のバランスポーズで頭の位置が低いものは、ちょっと長めに止まったとしても1.5秒。
座位で手と手を繋ぐとか掴むとか、そういう目的にしやすい対象のあるポーズは長くなりやすいのですが、1.5秒を超えたら、理性を後回しにする獣モードに入っていると自分でも感じます。

 

 

呼吸が薄く小さくなっていると認識している瞬間は、賢人の時間

冒頭に、わたしは「無理をしたい」という気持ちも観察していると書きました。
わたしはこれは光だと思っているので、尊重したいんですね。
なので、呼吸が小さくなっているなと自分でその小さくなりかたを認識しながらの頑張りは「無理をしている」に含めません。
そういう瞬間って、ものすごい集中力を発揮していて、神々しく見えるんです。
ほんとよ!

 


生き物が輝いている瞬間って、美しい花とかカッコいい動物とかいろいろあると思うのですが、この輝きは格別です。

 

 

 理性の輝き

 

 

なので。
インド思想だと知性という言葉がよく見られると思うのですが、知性の輝きと理性の輝きはちょっと色が違って、もうこれは「金色銀色桃色吐息」と吐息の色を見分ける康珍化先生レベルの話になりますからアタクシここでは詳述しません。

次の項目へ行きます。

 

 

毎日は小さな決断の連続

ちょっと今日はここまで、細かすぎる話をしたかもしれませんね。いったんシンプルにしましょう。

「無理をしない」を優先するなら、そもそも片脚で立とうだなんて、そんなことはしないほうがいいわけで。この優先順位で言えば、しないほうがいいポーズはたくさんあります。

ヨガのアーサナの練習を通じて学ぶのは、マインドのありかたはどうかを観察する方法論です。

 

わたしは「無理をしない」の過剰投与はマイナス面を補強することがあると思っており、少しくらいはチャレンジポーズにも取り組んだほうがいいと考えています。
このマイナス面は性質としては女性性で、リスクへの洞察力を過剰に発揮してしまうこと。損をしないことが判断基準としてデフォルト化してしまうこと。

"お得" が "好き" よりも判断基準として大きくなると、どんどん "好き" の感覚の存在場所が減っていきます。

 


女性性のプラス面は受容力や洞察力で、これもヨガの練習中に見られる特別な輝きです。細かいところをよく観察して動きに反映している人を見ると、知性の輝きを感じます。こちらは、理性の色よりも知性の色をしています。わたしにはそう見えます。

 

 

ヨガは反省・反芻で自分を追い込みすぎることを抑止してくれる

ヨガは続けていくにつれて、効用の定義が自分の中で変わってきます。
わたしはいまは、反省・反芻の時間にそれが応用されます。生活は決断の連続で、そこには小さなものから大きなものまであって、それぞれに背景と性質があります。
そのさまざまな決断について、自分の状態がどうであったか、どうしたくてそうしたかを後で検証する際に、視点の持ちかたとして練習中の意識が生きる。

 

正しい決断に役立つというよりも、あとでまた同じような思考の展開で失敗したくない、こういう選択をしてしまう自分を変えたいと思ったときに、その分解と学習に役立ちます。マットの上での出来事が、まるで心のはたらきのパターンを記録してあるノートみたいに機能する。
長く続けてみて思う精神面での効用は、こういうもの。

 

自分の心のはたらきを直接瞑想で客観視するのって、かなりむずかしいです。どうしても主観が参加しちゃうから。観ていられなくて、賛同したり断罪したりする。

 

 

結論

ヨガは、動き出すと楽しくなります。
ちょっと目を離した隙にインストラクターの声が耳に入らない星屑ロンリネスまで行きかけていることは、瞬間的にはものすごくよくあること。
なので「呼吸を意識して」「待って」の声がけがとっても有効。
心を扱うものなのでね。
そういうことなんです。

 

 


▼このポーズとか、ほんと呼吸が小さくなるYO!
 (蛇や蛙がいなくても。鎧を着ていなくても)

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