2022年の2月に、2年2ヶ月ぶりに読書会を行ないました。
今日はそのときに、わたしが参加者の視点で思ったことを書きます。
再開・オンライン化にあたっては、選書・コンセプトの見直しも行い、再開の初回は遠藤周作さんの『海と毒薬』を課題図書にしました。
わたしが主催する読書会は「オンザマットと同じように、オンザブックで」という趣旨。
わたしがインドで受けてきたヨガのティーチャー・トレーニングでのディスカッションが、この場の構想の始まりです。課題図書のなかに神についての話があれば、その話をします。
こういう話を他人と広い視点で話す機会ってあまりないかと思うのですが、わたしはインドでとてもよい経験をしたと思っていて、まったく同じ形でやることはできないにしても、それを日本語話者同士で再現する形はないものかとずっと模索してきました。
「神みたいなもの」の「みたい」ってなに
その日は『海と毒薬』のある場面のセリフをきっかけに、参加のみなさんとお話しました。物語の中の一場面に、多くの視点で向き合います。視点のスクランブル交差点です。
参加者のなかに何名か、人物に着目している人がいました。「神」に対して斜に構えているけれど実は「神」を感じたくて感じたくてしょうがなさそうな人がいる。
「俺にはもう神があっても、なくてもどうでもいいんや」
あなたいま「もう」っておっしゃった? と。
会話としては、自分の善性の種(たね)をほのめかすだけで、結局何も変わらない場面。
そこを見逃していない人がいました。
その人たちの言葉をまとめると
自分がどこまで堕ちるか試してるようでありながら
善性を信じる力を持った人に
自分の「それ」を見つけてほしそう
まるで、友人に賭けているかのよう
この件について、参加された方と話しながらわたしも思うことがありました。
自分ひとりでこの小説に出てくる研修生二役を一人でこなしている、そういう瞬間が過去に何度もありました。
自分の善性を引き出しながら生きていくって、こういうことの繰り返しじゃないでしょうか。
あこがれる気持ちを茶化してしまう
あこがれているという感情は、自分で自分に行うキャラ設定によって、それが深いものであればあるほど表に出せなくなることがあります。
もう表面のキャラクターはできちゃってるし。
そのまま行けちゃうといえば、行けちゃうし。
自分で自分に対して設定した現在のキャラクターを、必要な時に自分で捨てることができるか。
小さすぎて目に見えないくらい微細なあこがれのようなものを自分の中に見つけたときに、自分で自分を盛り上げることができるか。
わたしはこれまでサンスクリットの「バクティ」という言葉の意味について、日本社会で生まれ育ってきた自分の宗教観・倫理道徳観では理解が届かないものと思ってきました。
「信愛」や「帰依」と言われると、とても強く特別なものと感じる。
だけど、これを「善へのあこがれ」としてみたらどうだろう。
読書会のなかでのディスカッションの時間が、わたしにとって、このひとつの言葉の意味に近づく時間になっていました。
身体を使ってアーサナが深まっていくプロセスと同じように、この瞬間のために小さな意識が積み重なる段階を経ての、ほのかな理解の糸口。
ヨガの練習をしているときと全く同じような感覚で、画面越しに視界に入る人たちの意識と言葉に助けられました。
人間は硬くなります。生まれたときは、みんなやわらかいのにね。
意識してやわらかくしていきましょう♪