うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

「A」 森達也監督(ドキュメンタリー映画)

教祖が逮捕された翌年の、残された信者たちの暮らしに入り込んだドキュメンタリー。
数年前に本を読んでいたのですが、このたび映画を初めて観ました。

虫を殺さず近所へ逃がしに出かけるような生活をしている信者たちの戸惑いと、連帯責任をとれ! 謝れ!と実行犯ではない彼らに詰め寄る社会、公安警察とマスコミの強引さ、時々ちょっと恐ろしくもある市民の行動が記録されています。

 


正義を巧妙に操る大人のコミュニケーションがいろいろあるなか、わたしがいちばん日常に近く感じたのは、信者に説教をする近所のおばさん。やっていることは侮辱なのだけど、言葉はとっても教訓的。
広報副部長の28歳の青年に、「あなたはまとめ役できないわね。社会に出た方がいいわよ」とアドバイスをしています。広報の仕事はまとめ役ではないのに。

与えられた情報とイメージに従って、若者を侮辱する発言を “善意” で行う。与えられた情報を疑わない純粋なおばさん。これは純粋と純粋の戦いなんだな、ということがよくわかる。


終盤に、そのおばさんたちと同世代であろう信者の村岡達子氏がフランクに話す場面があります。クルタではない普通の服装で出かけて帰ってきて、それらすべてを客観視した状態で自分の考えを話しているときの聡明さが、後になってじわじわくる。

こういう人がいたら、そりゃ信者も増えるわなと思うほどの落ち着き。

 

 

若い信者の言動にじっくり耳を澄ましてみると、一貫して「カルマ」の捉え方が極端です。
なにかと現実を紐づけなければ自己を保っていられない思考に陥っている人にとって、原因と結果の法則は強烈にハマれる。
過去に動物を扱う会社にいて、豚だけでなくハエやウジも殺虫剤で殺してきた、それをカルマとして悔いている人が登場するのだけど、その人の思考には転職という中間の発想がなく、そこが見事に抜け落ちています。

 


特に若い信者の発言を聞いていると、家族(あるいはファミリー的な社会組織)に絶対に戻りたくないという強い意志が見られます。自分自身や教団の仲間だけが人間で、それ以外の他人をなにか「別の塊」として見ているような、そんな断絶がある。

まだ20代の荒木広報副部長に対して、森監督が「30年後(両親が高齢になる頃)、あなたはどうしていると思いますか?」と問うと、「ハルマゲドンで大変ですよ(笑)」とユーモアにしているかのような口ぶりで答えるのだけど、それがどうにも笑えない。家族の元に戻るくらいなら世界が滅びればいいと思っている思考が漏れてる。漏れちゃってる。

 

残された信者が麻原彰晃の崇拝をやめない理由もそれぞれで、戒律・ルールのある生活に愛着を持つ人がいたり、もともと欲が薄いのでと言いながら “こんなに修行がしっかりシステム化されているものがほかにないから” と、ナンバーワンを探している人もいます。
「グル」が必要な人もいて、「グルがどんな人間でも構わない。最終的に自分を解脱まで導いてくれるのは尊師しかいないから」と話しています。
麻原彰晃の歌声の音域が高いのは、ヴィシュッダ・チャクラが開いているからだと言う人もいる。

 

 

地下鉄サリン事件の実行犯になった信者たちとこの映像に映っている信者たちには、持っている情報として大学と小学校くらいの差があったことがうかがえる、そんな場面もあります。
熊本県のシャンバラ精舎という施設を撤去する前夜には、透明の液体の入ったボトルを前に「サリンだったらどうしよう」「警察も入ったんだから大丈夫でしょ」という会話をしている。
このくらいの感覚の、事件についてほとんど情報を持たない信者が、連帯責任をとれ! 謝れ!と詰め寄られている。とても日本的な光景。

 

 


さて。ここからは、この映像を観てわたしが考えたことです。
わたしはこの映画を観て、はじめて「人権110番」と千代丸健二さんを知りました。
信者のお二人、千代丸さん、そしてこの映像制作をしているお二人の計5人が話し合う場面は、人間個人ひとりひとりが意思を交換しながら話し合えている、”誘導のない” 最も濃い場面。
信者の二人が被害者意識を盛ったりせず、ただ打ちのめされながら、最低限の尊厳を守ろうと奮起しています。
そこに関わる信者ではない人たちを見て、中立ってこういうことだと思いました。熱くなったりせず、淡々としています。

 

 

—— それにしても、なんでここまで中に入り込んで撮らせてもらえているのでしょう。
この映画の最大のポイントは、やっぱりここだと思います。
映像を観る側が抱くこの疑問には「ちゃんと見える人に見てもらいたい、聞ける人に聞いてもらいたい」と、荒木氏の発言があります。
それに対して「見えてると思いますか。森に」と森監督が問いかける、そんなやりとりがあり、その回答はありません。でも荒木氏は他人を信用したいという葛藤が起こったときに下顎が前に出るのでわかりやすく、それが答えにも見える。

 

視聴率の取れる映像を撮ることが最優先のテレビ局ばかりのなか、とりわけ丁寧なNHKの女性レポーター(か記者)が一生懸命対話を試みようとして、施設の中に入る場面があります。
そこで穏やかに話が進みながら、信者が自分の思いを話したあとで「噛み合ってませんね。やめましょう」「やはり聞く側のイメージにはめられてしまう」と対話を閉じてしまう。この瞬間に、話したいのに話ができなくなっていく人の気持ちを見ました。
NHKのかたの「誤解のないように語ることはできないものでしょうか」という問いは、取材する側の歩み寄りとしては足りなくて、「まず謝れ!」と要求され続けてきた信者がそれで話せるわけがない。
どんなに下から目線で「話してもらえませんか」と言われても、自我が崩壊するかもしれないリスクが等価交換ではない博打に出てください、と言っているようにしか思えないんじゃないか。
信頼関係を築くには、やっぱりものすごくコストがかかる。そこをショートカットしようとして、人は演技という手段を使う。NHKのかたの演技は、さすが国営放送というものでしかない。

 


労を割かずに他人の自我に肉薄することなんてできない。

この映像から学ぶことは、この部分にあるように思いました。

 

 


そして。
最後に観終わったあと、自分の人生を振り返りました。1996年のあの頃、わたしは浮き足立っていました。世の中の進んだカルチャーを追いかけて楽しんでいました。買いたいものがたくさんありました。
同年のヒットソングを見ると、日本は小室サウンド全盛期。洋楽ではジャミロクワイの床が動いてスパイス・ガールズがベリベリウォーと歩きながら喋ってるんだか歌ってるんだか、という時代。
新しいものがどんどん出てくる、追いかけても追いつけないくらい未来へ向かって時間が動いていると感じていました。

 

一方で、まったく違う未来を想像している人たちもいた。
日本はこんなにも多様だったのかと、いまさらながら思いました。
当時の自分が他人を断罪的な視点で見ることがなかったのは、まだアドバイスをする対象を持たない年齢だったから。ただ若さがブレーキになっていただけ。

 

わたしが正義を技巧として使うマインドについて考えるべきタイミングは、まさにおばさんである今だと思いました。いま観てよかった。

 

▼わたしはアマゾンプライムビデオで観ました

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▼本を読んだのはもう8年も前のことでした