社会的に失うものがないと感じている人を「無敵の人」と言うネットスラングがあります。電車や多くの人がいる場所でテロのような無差別殺人事件があると、ネットニュースの中でこの言葉を目にします。
「無敵の人」は、 ”失うもの” という定義が曖昧なまま使われているように感じて、いまひとつピンとこない言葉です。居直り強盗の強盗じゃない版のような。
社会的に特に価値のない存在と思ったまま、自分を価値があるかのようにときどき盛り上げたり誤魔化したりしながら、それなりに多少まじめに生きている。実際のところはそういう人が多数では、と思うのです。
なので、”失う” という感覚はどこから来るのだろうと疑問がわきます。他者に対して感じる恩の気持ちが枯れた状態と言われたほうが、なんとなくしっくりくる。
さて。
この小説は、失うものの定義が足元から崩れ去っていく時代の話で、実在の事件がベースになっています。登場人物の男性たちはエリートで、女性はデフォルトの性差別を一旦おいておけば、手に職を持ったキャリア・ウーマン。
それでも何かをとっくに失っています。
この「崩れ去りかた」にはどこか既視感があります。
ビジネスの成長のために判断力の乏しい若年層からゲーム課金で利益を上げるべく進められる技術開発、ウェブメディアがクリック数を増やし広告在庫を多く作り出すために開発される少ない文字数の中での刺激的な言葉選び、たまたま知っている業界でパッと思いつくものを書いたけれど、「崩れ」というのは、それに気づいていながら “アリなこと” にしてしまうもの。
それを明らかにして良心を問うことは、必ずしも有効ではない。というのは、これまで25年ほど働いてみたわたしの実感です。
良心の追求はむしろ逆効果で、別の動機づけを生み出し強化してしまう。この小説ではその現象が描かれていて、その心理に既視感がありました。
”明らかにすること” も “良心を問うこと” も逆効果を生み出すことがよくあるのはなぜか。
この小説のなかにある以下の心情は、わかりやすくゴツゴツしていない、ふわふわとして見えにくい自暴自棄をよく描いています。
勝呂は心の中で、呟いた。(お前は自分の人生をメチャ*1にしてしもうた)だがその呟きは自分にたいして向けられているのか、だれにたいして言ってよいのか、彼にはわからなかった。
もうそこにすでに自分の価値と紐づく世界はないから、なにも感じない。自分との対話がもう成り立たなくなっています。そこにあるのは、じわじわいつの間にか定着していった自暴自棄。
希望を失った人の多かった時代の出来事から学ぶことは多く、この小説はその色が濃い社会で生きる気分を疑似体験させてくれます。
*1:メチャに、というのは原文のままです