読み終えてからこの本は「空の拳」という作品の続編であることを知りましたが、これだけ読んでも単独で完結しています。
本屋で見つけてタイトルの意味がすごく気になって読みました。わたしはもともと格闘家のメンタル・コントロールにすごく興味があります。ヒクソン・グレイシーさんの本をここでも2冊紹介していますが(一冊目/二冊目)、ほかにもボクシングの畑山さん、相撲の白鵬さんがわたしの中では格別。わたしは、この人が負けるってことはもう今日はだめなのだろうというくらい、圧倒的な安定感で乱れのない、もともと一段超えたところで試合を見せてくれる人に惹かれます。
この小説にも、格別に強いボクサーが出てきます。そのボクサーと戦った人間がそのときに感じたことを自分の中で消化し、その先が少しずつ紐解かれていく。前半は気持ちを貯めていくためにストーリーが長いのですが、7割くらいからいっきにまとまってくる。終盤にジーンとくる場面が何度も押し寄せます。
描写はボクサーの視点ではなく、出版社ではたらく編集者の視点で語られます。元ボクシング雑誌の編集者が、その雑誌を離れてもなお惹かれる世界につかず離れずしながら進みます。この人物の思考分解がまた細かい。
確執や陰謀があってほしいと期待するかのような思考を発芽させては自分で摘んでみたり、努力すれば自分もそうなれたことを認めたくない傲慢さに向き合ったり、分析と願望をないまぜにしてまた分けてみたり。そしてそんな思考に、ボクシングジムに出入りする子どもの心を重ねていきます。
はじめはこの子どもの役割が、よくある強さへのあこがれの表現者なのかと思っていたのですが、そうではない。小学生の男の子が、圧倒的に強いボクサーをかっこいいと思うし応援もするけどファンってのはどうかな。という。理由を、
「だって、かっこよすぎるじゃない」
と語る。
この場面がすごく印象的で、実際このセリフが全体の話のまんなかくらいにあり、「強い=かっこいい」の裏側にある気持ちの描写に移っていく。
まえに角田光代さんのエッセイ「いつも旅のなか」に、こんなことが書いてありました。
友達づきあいでも恋愛のはじまりでも、仕事のやりかたでもいいんだけれど、「なんだか以前の方法論が通用しないぞ」と気づくときがある。
この小説でも、まさにこういうことがボクシングの世界の中で展開します。戦い方のエレガントさを捨てて、場所を変えてやり直す人物が登場する。モチーフとして主人公であるこの人が、すごくいい。
試合場面では、引き込まれる観客のエゴの変容も描かれます。
生の試合は、ときに強さというものをむき出しで見せる。もちろん、弱さも。それを感じ取った観客は、見えた強さが自分の内に在ると無意識に思い込む。ドスを利かせて野次る人も細かく指示を叫ぶ人素人も、対戦相手より自分が強いと錯覚してそうしている。
ここは、さすがとしか言いようのない感じがしました。この作家がボクシングを描くと、こうなるのか〜。
ほかにも、試合中に指示を出すセコンドとボクサーの支配関係も、細かすぎて指ではつまめないようなホコリをさっと爪楊枝で掻きだして「ほれ」と見せるように書かれています。
サスペンスの要素はないので、これまでの同作家作品を好む人には慣れない感じがするかもしれません。試合の場面を脳内で映像化しながら読める人なら、終盤からじわじわきます。
▼紙の本
▼Kindle版