先日開催したヘルマン・ヘッセ「シッダールタ」の読書会でのこと。
その日多くのことを語らうなかで
追従する者がグルをつくるのかグルが追従者をつくるのか
という、その力関係のありようや心情について掘り下げる時間がありました。
ここでいうグルは伝統的なグルということではなく「カリスマ」といったりするような、そういう存在。
「シッダールタ」という小説には主人公に追従する人物が登場します。その二人の関係性の変化がひとつの読みどころでもあって、追従者はほかの登場人物と比較してキャラクターの濃い人物ではないのだけど、独特の役割を果たしています。
この日の読書会参加者のなかで、この追従者の物語も読んでみたいというかたがいて、そうそう!その視点!と前のめりになる瞬間がありました。
このかたが取り上げてくださった場面は、わたしも同様に印象を深く刻んだできごと。かねてより使い方も意味も理解できていないと感じていたひとつの言葉について、それってこういうことかな…と思った場面です。
その言葉は
慈悲(じひ)
という二文字。
他人の状況や境遇や心情を気の毒だと思うことについて、その経緯も色合いも深い要素を含んだ感情であろうことを頭では想像していたけれども、わたしにとっては腹に落ちてきたことのない言葉。この意識へ至るプロセスにはすごく時間がかかる。
その長い長いプロセスを、この本を数回読み通すことで、物語に没入したりしなかったりすることで、想像を深める。わたしにとってこの小説は「仏の心」をかいま見るきっかけになる小説でした。
追従者である人は、常に師を求めます。絶対的なぶら下がり先を探すこの人なりのエゴがある。
主人公は、さっきまで自分のことを絶対的なぶら下がり先としていた人が別のぶら下がり先を見つけ「なぜあなたもそうしないのか」と言ってくる場面でなかなか興味深いリアクションをします。この状況は、「逆ネズミ講」のような展開。カモにカモられるかのような複雑な感情を生む場面。
こういう関係性を描くってちょっとおもしろすぎやしないかと、こういうじわっとくる感じについて、その場でみなさんと感覚を共有しました。しっかり時間を設けなければ、めったに話せないトピックです。
この地味な味わいが妙に後を引いちゃうのは、ほかの登場人物とは違うこのふたりの関係性が "共依存" のメカニズムを微細に描いているからかもしれません。