先日、数年ぶりに関西で読書会を開催してきました。
課題図書はアガサ・クリスティーの『春にして君を離れ』にしました。
瞑想について解説する書として秀逸なので、いつかこの小説で開催したいと思っていました。
瞑想は中身を講座にできないものです。
それをアガサ・クリスティーが独自のやり方でやっていて驚いたのが2020年の1月。まだコロナの足音もなかった頃です。それをやっと、ヨガをするかたとお話をしながら共有することができました。
瞑想は孤独な行ないで、空気の読み方を探ることを一切受け付けないものです。
ヨガのアーサナの練習が体力作りなのかエクササイズなのか憂さ晴らしなのかボケ防止なのかイベントなのかパーティーなのか集中の場なのか心の換気の場なのか浄化の場なのか瞑想の準備なのか。
外側から見た状態を動禅と言おうが坐禅と言おうが、瞑想は瞑想です。
今回は事前にいくつかの質問に回答いただくアンケートのような宿題の中に、以下の趣旨の、似た回答をつぶやきのように書かれたかたが二名いらっしゃいました。
普段から瞑想をしていない人に、
いきなりこの体験はきつかろう。
瞑想って、手順を踏んだり慣らしていかないとキツいもの。だからヨガではアーサナや呼吸法があんなに開発されています。
毎日同じ場所で同じようにタイマーを設定して習慣化するとわかるのですが、脳内世界で他者をジャッジしたり(過去への意識)、アイデアやプランニングを展開したり(未来への意識)という瞬間が9割で、"現在” "存在” への意識は残りの1割くらいしか向いていなかった! なんてことに気づかされてしまう日もある、そういうもの。
自分の人格やキャラクターを固定できると思うことがどれだけ傲慢か、それをありありと思い知らされる時間が、瞑想の練習の時間です。
そんな、瞑想の練習で起こるプロセスを物語にするって、、、できるんか。
・・・って
── できてまうんかーい!!!
このような読書経験から、アガサ・クリスティーに対していまふうの言い方をすると、わたしはまじリスペクトしかないのです。『春にして君を離れ』は、まだ十数年ですがヨガを続けてきたわたしにとって、そういう作品です。
視点を持ってしまうこと、視点を世間一般という主語でコーティングしながら「わたし」として考えている配分に気づくこと、自己を客観視すること。これらのキツさがみっちり書かれています。
ヨガ(ヨーガ)は、インドではヨーガ・ダルシャンと言われ、それを無理やり訳すと「哲学」なのですが、日本語では「視点」のほうが近いもの。
インドで受けた哲学のディスカッションで話すときには、視点を棚上げした自分の反応に対して、先生から視点の確認をされることがありました。
視点を棚上げしてコミュニケーションをとるのって、ラクです。
「その場その場で空気を読んで、それらしい発言をできることが、わたしの安定した視点です(性格です)」という人が有能とされる(実際はされてないと思うけど)、そういう社会にいると、そのコミュニケーションの形に合わせているうちに、視点の軸足を定める筋力を失っていく。性格はあっても人格は空洞の状態になっていきます。
わたしはこれを日本社会の特徴であり、日本語(わたしにとっての母語)の特性であり、そこに長所も短所も居心地の良さもあると思っています。
▼2年半前に、こんな授業を受けました
心理ミステリー作家の作品をもとに Why の問いを他人と一緒にやれば時間はあっという間に過ぎていきます。
今回はそれをする本ではないと思っていたので、内容を踏まえた構成で進めました。
よく参照するので、紙も電子も両方持っています。