少し前に『恍惚の人』を読んだのをきっかけに、この本を読みました。
同じテーマの現代版で、認知症の夫・親の介護の話です。
GPSのある時代になって医療もケア体制も進化して、『恍惚の人』が発表された昭和の時代に比べたら解決されていることがたくさんあります。
だからこそなのか、この物語は「コミュニケーション」の微細な部分により焦点を当てて読ませられる話で、単語も前提もあべこべになっているのに「通じているかのよう」である瞬間の光が際立ちます。
文脈も関係性も排除された、未知の単語が登場するあべこべの会話の中にある、「そういうことはある」という相槌。
これだけで救われることもある。まだ人生の荒波のなかにある30代40代の子どもたちと、10代の孫たち。孫の顔を見せられそうにないと感じている30代末娘の葛藤もリアルです。
認知症は認知そのものが問題なので、怪我をすると身体は治ることができても、リハビリの指示を聞けなかったり点滴の管を抜いてしまったり不適切な角度に身体を動かしたりしてしまう。指令系統が壊れてしまったら、身体は治ることができても生活上の意味がなくなってしまう。医師からの説明も現代的です。
排泄がその日の調子のバロメーターであることも書かれていて、排泄がある日はスムーズに一日が運び、認知も快調。便秘が続くとコミュニケーションが成り立たない。
認知症になるお父さんが文学好きで、自分の感覚を「遠くなる」と表現していたのが印象的でした。そこがタイトルと呼応していて、少しずつ進行していく病を重くなく見せてくれました。実際は大変でも進行がゆっくりだから、なんとかなっていく。
タイパだコスパだという若い頃の価値観とは真逆になるのが人生の後半であり、終盤。
よい物語に触れました。
映画も観ました。映画はやりすぎな印象。
わかりやすく泣けないとコスパが悪いと感じる人にも観てもらわないと。という市場なのかな。