うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

未完の肖像 アガサ・クリスティー著 / 中村妙子(翻訳)

30代終盤の傷ついた女性の自分語り。

一晩がかりでこれに付き合ってくれる人がいるとしたら、それは地蔵。

名古屋駅の近くで、愚痴聞き地蔵ってのを見たことがある。

 

そんな愚痴聞き地蔵ごっこも、小説ならば実現可能。

読んでいるわたしが地蔵になって話を聞き続けることができるのは、聞いているのではなく読んでいるから。読了できたわたしが地蔵菩薩かといったら、そんなわけがない。石じゃない。肉だもの。人間だもの。途中で食事・排泄・睡眠・仕事・息抜きをしながら読んでいる。

 

 

 

 わたしは傷を感じている/あなたは傷を感じていない

 

 あなたは傷を感じている/わたしは傷を感じていない

 

 

 

この設定を行ったり来たりしながら役割を請け負うのが親しい人との会話で、「わたしは傷を感じている」の席を指定できるのがカウンセリングや病院?

「わたしは傷を感じている」の席に座りに行くよりも文章を使いたい人もいる。わたしがそれだ。声だと心の響きが直接乗ってブーメランのように自分の耳に入ってくる。それがしんどい。アガサ・クリスティもそうだったんじゃないだろうか。

この本を読んだらそんなふうに感じた。

 

 

彼女の諦観が導き出す自虐は、この物語が書かれてから88年後のいま読むと敗北主義が行き過ぎている気がする。

あたしの身に起こったのは、とくに珍しいことではありません。そうしたありきたりの、馬鹿げた出来事はたくさんの女の人の身に毎日のように起こっていることですわ。あたしが人並みはずれて不運だったわけではないのです。ただあたし ── 馬鹿でしたの。そう、どうしようもなく。馬鹿な人間が存在を許されるほど、この世の中は広くないんです

(2 行動への呼びかけ より)

こうなる前に深呼吸をして、身体を動かして汗を動かしてみたら・・・と提案しようにも、このモードへ向かう人には届かない。身体がそこにあっても、届かない。反省から一直線に自己憐憫へ向かう人には届かない。

 

リアルで延々こんな愚痴を聞かされるなんて絶対無理! と思う内容をメロドラマ風の独白調で書ける文才はさすが。毎回思うのだけど、うだうだ続かない場面切り替えがいい。

 

アガサ・クリスティのセルフ・カウンセリングに延々付き合わされているようでありながら、「うわー最悪」とか、「出たー、このパターン」とツッコミながら読んでいるうちに時間が過ぎていく。

貴族のテレフォン人生相談みたいだった。