うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

恍惚の人 有吉佐和子 著

友人のすすめで読みました。「際限なく悲観することもできる問題をそうせずに、かといって綺麗に希望を持たせるのでもなく、ちょうどいい加減で書いてある」と教えてくれました。

読んで納得。この題材でこういう気持ちになるなんて。まさに友人の言う通りでした。

 

 

発表当時のインパクトは、現代の「保育園落ちた日本死ね!!!」と同じように国の政策が動き出すレベルだったよう。

介護=嫁が退職して行うものという運用では社会が回らないことを明らかにした作品で、作家の仕事が社会に果たす影響として偉大です。

 

 

介護されるお爺さんは最初から悪役で、意地悪で不親切なため友人がおらず、頭も躰も怠けた生活を定年退職後20年続け、その対応を受け止めてきたお婆さんが先に死んでしまいます。

 

そこから家族や近所の人、職場の人、友人、知人、いろんな人の考え方や抱えている不安、理性を失った人々の生き様が描かれ、人々のコミュニケーションがリアルで引きこまれます。

 

介護をする嫁の昭子さんも、近所で介護をしている奥さんも、これまで自分をいじめてきた人の世話をしています。それでもこの役割をこなすのはどこか信仰のようであると話したり、洗濯物を手洗いする時代じゃないことがありがたがり、文明への感謝を述べ、乾燥機の貸し借りをしています。

同時に50代の人が老いを感じる内省が多く、そこに不思議なユーモアがあります。

こんな記述がありました。

 

昭子は自分が眼鏡をかけるようになった理由を、老化と思いたくないばかりにスモッグの所為だと決めていた。光化学スモッグなとという未だに得体の知れないものこそ、現代科学の産み落とした鬼子で、あらゆる文明病を象徴していると。

 

昭子さんそれ w  と、全員がつっこむところです。

だけど今まさに義務と罪悪感に追い立てられ、視力の低下をワクチンのせいにしている人が身近にいたら、笑いながらつっこんだりはできません。

こんなふうに置き換えながら読むと響く出来事がいくつも登場します。

 

 

昭子さんが抱えている社会的感情と葛藤

昭子さんは法律事務所で働いていて、お爺さんからお風呂で溺れてしまった際に、医師とこんな会話をしています。

 

「溺れたのですね」

「助かるでしょうか。いえ、あの、先生、助けて下さい」

 だんだん昭子の声が尻上がりに高くなっていたのには理由があった。説明し始めるとすぐに過失致死という犯罪名が昭子の脳裡にくっきりと灼き出されたれたからである。なまじ法律事務所などで働いているばかりに、こんな時にこんな嫌やな文句を思い出すのかと昭子は自分が情けなかった。

 

実の娘も息子も父親がなにかの拍子に亡くなってくれればと思っているのが明らかなのに、息子の嫁である昭子さんだけが、何かあれば夫と義姉から自分の責任にされると恐れています。

介護と仕事の両立に限界がきて老人福祉指導主事に電話をして問い合わせている時点でも、まだこんなことを思っています。

 

自分の意思で、しかも夫に相談もせず、こういうことをしているのは後ろめたい。専門家から世間の様子を聞かせてもらうだけだ、と昭子は自分に言いきかせた。

 

前に川上未映子さんのなにかのエッセイで、夫と自分、ふたりの子供であるはずなのに、なにかあると夫に「ごめん」と無意識で言っているのはなぜだろうと書かれていたのを思い出しました。

 

昭子さんが初めて110番をした直後の戸惑いもリアルです。

自分が最大の犠牲者でありながら、同時に家の中の恥や不都合を覆い隠す役割も担っている、謎の自負。それが使命感になって、連携したり助け合ったりできるはずの人まで敵視しています。

近所で介護をする人に知られたくない気持ちは、こんなふうに書かれていました。

 

人格欠損などと役所も医学も言葉では簡単に言うけれど、実際にそれが起こってみると、ひどく破廉恥なものに思えて口にするのは憚られた。一般に老耄の果てのことを人があまり知らないのは、家の中の秘めごととして他人には漏らさないからなのだろう。門谷夫人に言おうものなら、たちまち面白がって寝たきりのお婆さんに告げて打ち興ずるに違いない。そんな相手にはますます言いたくなかった。

 

話す相手を選びたい気持ちって、自分の心をギリギリのところで護るものなのか、追い詰めるものなのか。

話せるエネルギーが枯れる前に説明できるようにしておくのもまた技術。だけど、そのときは無理なのよ。

 

 

老人性の精神病/老人福祉指導主事との会話

この小説は妄想への対応について、物語の中に何度か登場する老人福祉指導主事との会話を通して、当時の社会概念を知ることができます。

島崎藤村の小説を読むと、妄想と凶暴性の掛け合わせで手に負えないお父さんを座敷牢に入れていたことがわかりますが、こういうことは小説で知るほうがリアリティがあります。

 

この小説が書かれた昭和47年頃は、老人福祉指導主事によるヒアリングで確認されているのが凶暴性の有無で、「でも兇暴性はないようですね」というセリフがあります。

わたしの親もそうでしたが「キチガイ病院に連れて行かれる」と近所の人に大声で話して抵抗されたので、昭和の大人は「精神病院にかかる」という行為への心理的抵抗が大きかったことがわかります。

老人福祉指導主事が、こんな話をしています。

 

「立花さん、老人性鬱病というのは、老人性痴呆もそうですが、老人性の精神病なんですよ。ですから、どうしても隔離なさりたいなら、今のところ一般の精神病院しか収容する施設はないんです」

 

この時代から約50年。政府は手を打ち策を重ねてきたのだなと思います。

これからはGPSや監視カメラ&AI でできることも増えていく。昭和47年の中年主婦たちが洗濯機のおかげで義親の汚れた下着を手洗いしなくて済むことに感謝した延長線上に、このテクノロジーがあります。

 

 

一方で、関わる気持ちのエネルギーについてはどうか。

先日、LINEメッセージに既読がつかず、翌々日にも送って既読がつかないので行ってみたら親が家で亡くなっていた人がいた、という話を身近な人から聞きました。

最初の時点で駆けつけていたらという葛藤(架空の後悔)と似た話が、この『恍惚の人』の中にも出てきます。

 

この小説における人間の心の残り香のようなものと尊厳についての描かれかたに、静かに圧倒されました。読んでよかった。