うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

記憶する体  伊藤亜紗 著

ヨガで身体を動かす練習を続けていくうちにわかることに、「混乱そのものを理解する」というのがあります。
ヨーガの教典を読むと「知覚」と「記憶」への言及が多く、それが苦しみの原因であることがわかります。

 

練習中に意識が散漫になっているときは記憶が散らかっている。そんなふうに感じることが、数秒、数十秒、あるいは数ポーズの時間単位で起こる。
いつも同じ手順を踏むシークエンスを行ったり、一呼吸一挙動の動きをするときに、「あれ? わたしこのポーズ(あるいは挙動)、やったっけ?」と直後に思うときは、家を出て駅に向かって歩き始めた直後に「あれ? 鍵かけたっけ?」となるのと同じで、そういうことをヨガマットの上で再現しています。

 


こんなふうに、自分が練習をしているときの混乱と日常の「あるある」を照らし合わせて語れるようになると、認識の段階が整理でき、なにかに失敗して精神面でつまづいたときにも、自分の認識のどこでどんな癖が出たのか、羞恥心や虚栄心をいったん横に置きながら見ようとすることができます。
アーサナが瞑想の準備段階といわれる理由はたぶん3つあって、ひとつは関節を柔らかくして安定した結跏趺坐を組みやすくするため。あとは、血液の浄化。そしてもうひとつは、記憶の混乱と認識を整理する方法を知るためじゃないかと、わたしはそう理解しています。

 


この本『記憶する体』は、ヨガとまったく違う角度からまるでヨーガ・スートラだと思うようなことが書かれていて、目の覚めるような発見のオンパレード。
視覚や聴覚を失ったり、肢体を失ったり、認知症を発症した人たちの語りから、ほのかな感覚の特徴を拾い上げる著者のセンサーがすばらしい。それは、実は気になるけれどいちいち拾い上げない「ヨガのインストラクターのよくある言い回し」へのわたしの興味と似ていました。


わたしは30代前半の頃、「足首をしっかり回してあげてください」のような。「してあげる」という言い回しを気持ち悪いと思っていました。やさしい雰囲気を醸し出したい演出にしては、幼稚園児みたいな扱いだなと。
そのあとしばらくして、もしかしてこれは自分で自分をケアする時間なんですみたいな考え方の発露? と思うようになり、「身体と対話しているんです」みたいなこと? 見えないものが見えるんです、みたいなこと? と、少なくない打率でインストラクターがそのフレーズを使っていることに注目する日々が続いきました。
さらにその後、関西弁を多く耳にするようになってから、別の発見に至りました。
「○○したった」「○○しといたった」という表現にある独特の主体表現を拾うようになってから、もしかして「してあげる」は、あの関西弁の標準語版か? と思うようになったのです。
わたしの場合、この「してあげる」だけで10年以上逡巡しています。

 

 

ほかにも挙動を促す際の気になるフレーズはいくつもあって、15年以上続けたいまは他人のどんな言い回しに対しても気持ち悪いと思うことがなくなり、その人の持っている絵の具や画材のようなものと思うようになりました。
そんなわたしがこの本を読んで、どう思ったか。

 

 

  この本、ヨガインストラクター必読よ!

 

 

と思いました。
いきなり結論から来てびっくりしましたか。
でも本当にそう思いました。
なんでそう思ったのかは各自読んで考えていただくとして、この本の末尾にこんなことが書かれていました。

 身体の考古学なるものがあるとすれば、いつかそのような視点で読まれることは、著者にとってこの上なく悦ばしいことです。そしてできることなら、単なる「過去の一時点における体の記憶」としてではなく、「賢者たちの知恵の書」として読まれたい。
(エピローグ:身体の考古学 より)

本当に、この本を一冊通して読むと、「賢者たちの知恵の書」です。
読みながら何度か、ヨーガ・スートラの第2章40節を想起しました。


こういう教えです。(訳の引用は『インテグラル・ヨーガ』より)

浄化によって、自分自身の身体への厭わしさ、他人の身体に触れることへの厭わしさが生ずる。

この節はわたしにヨーガの哲学を教えてくれた先生が「パタンジャリはとても興味深いことを言っている」と話してくれた節です。神妙な言い方ではなく、朗らかに微笑みながら。

 


意識の浄化によって起こることって、考えたことがありますか。
記憶の浄化といったほうがしっくりいくのですが、この本『記憶する体』では「幻肢痛」という、かつて持っていた四肢を失った人が抱える痛みについて当事者が語っています。

足や手が切断されたあとも、脳はそれを動かせという指令を出し続けます。けれども、実際にそれが動いたという感覚情報のフィードバックが来ない。
 つまり「動くだろう」という予測と「動きました」という結果報告のあいだに乖離が起き、この不一致が痛みとなってあらわれると考えられています。
(エピソード3 器用が機能を補う/記憶と現実のズレとしての幻肢 より)

この「幻肢」に対し、いまはVR(仮想現実)で運動の記憶を取り戻すという試みがされる時代になっています。幻肢痛の緩和効果はそれぞれで、幻肢のことを忘れようとしている人には、逆につらい場合もあると書かれていました。
3Dプリンターが義肢作りに活用されているプロセスなども、この本を読むことではじめて知りました。

 


義手や義足についても、その感覚について詳述された部分を読むと、なるほどと思うことがあります。

 義手を作るといっても、ただつけただけでは、右肩に腕が二本ついている感じがして、幻肢とひとつに重ならないかもしれない。そこで今の幻肢の形に近い形の義手を作り、まずは二つを重ねて一体化する必要があるのです。
(エピソード6 幻肢と義肢のあいだ/腕の記憶のゆくえ より)

ヨガをしていても、「腕をまっすぐ伸ばす」を意識した際のレスポンスには、すーっと指先から引っ張られているような要素と同時に、肩から木が生えているようなまっすぐさもあって、内側と外側の感覚をすり合わせを行なっています。
こういうことは拾いだすときりがないけれど、慣れていくとそれが統合され、それが気持ちよさ(無理のなさ)につながっている。
この各自の中で統合された挙動について、この本ではプロローグで「ローカル・ルール」という言い方をされていて、その単語選びが絶妙です。

 


対話の相手の言語化もすばらしく、特に、エピソード3に登場するプロのダンサー大前さん(リオパラリンピック閉会式でダンスを披露)の章は、経験者でなければわからないプロセスが丁寧に語られていて、必読です。
義足を使っているうちに上半身に筋肉がつき、上半身が発達した→足に力がなくなってバランスを崩しやすくなる→足もきちんと使って動くやり方に変えた、という経験を話されていた大前さんの以下のコメントは、経験者でなければわからないもの。ためになるお話です。

「腕の三倍の力が足にはある。だから足がエンジンになって、それを主導にして、器用なことは上半身でする、というのが基本的な人のつくりだとぼくは思っています」。
(エピソード3 器用が機能を補う/足の再発見 より)

細かな感覚を説明されるときの喩えがイメージしやすいものばかりで、わたしの場合は上記の部分を読んで、ヨガにある「まず下半身の土台をしっかりさせてから」というコンセプトを思い出しました。

 

 

視覚で認識しない人にとっての「わかる」や「把握する」の感覚的な優先順位についての話も、自分が退化させている感覚について知らされるようでした。 

 ひとことで言うなら、見える人は瞬時に、全体を把握したい。文章もまず「全体をざっと読む」ということをしたい。その分、細部の正確さは後回しになりがちです。一方、見えない人は、ひとつひとつ、細部をつみあげることによって把握したい。時間はかかるけれど、その分正確な知り方です。
(エピソード5 後天的な耳/雰囲気か追体験か より)

最近の小説にはAudibleでも配信されるものが多くなっていて、耳で読むなんて言い方をする人がいるけれど、それすらも「視覚も使う人」にとっての価値の訴求かもしれない。
目が見えない人にとっての読みやすさ(だけど音声)って、作家によって違ってきたりするのだろうか。目の見えない人に音声の読み方ではなく文字列の編み方の面で人気の作家って誰なんだろう。
自分のことに引き寄せて言えば、わたしは太陽礼拝を目の見えない人に伝えるときに、スクリプトをどう変えるだろう、ということを想像しました。

 


人間の身体は驚くほど精密にできている。それはトレーニングを受けたりいろいろな本を読んで学んできたことではあったけれど、この本を通じて得られるものは、「人生と身体と記憶」がセットになっている瞬間の積み重ねとその重さで、人生が置き去りにされていない学び。
どんなに解剖学や身体論の本を読んでも、何かどこか上滑りな感じがしてしまうのは、そこに「人生の記憶」の話が欠けていたからなのだと、この本を読んで気がつきました。
「前世で存在していた身体」のような感覚を持ちながら今を生きている人の語りには、ヨガの精神的な世界を通して肉体を見ることについての、どこか浮き足立った部分をガツンと締めてくれるようなパンチがありました。

 

なげーよ! とうんざりした声が聞こえてきそうなほど、今日は長い感想を書きました。
これでもだいぶ我慢しました。そのくらい、書きたいことがあふれる本でした。