うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

弔辞 ビートたけし 著

先日、日本映画をたくさん観ている人に会えたので、たけし映画のオススメを訊こうと思ったら「わたし、そこ通ってないんですよね。観てないんです」とおっしゃる。

なんかわかる。わたしと同世代でなんとなく避けてきたって人は、けっこういるのかも。

90年代から文化人になったビートたけしの変貌についていけなかった。よくわかんなくなっちゃった。だから断片的に「なんか派手なセーターを着はじめた」とか、表面的なところばかりを覚えている。

いま見るとかなり興味深い発言をされているのだけど、それは自分が社会人経験を経たからなんですよね。

当時の本を読むと驚くという話を、少し前に書きました。

 

 

 

わたしは著者の神や宗教に対する見かたが気になります。

ヨーガの哲学を教えてくれた先生と同じことをおっしゃっていることが多く、知れば知るほど気になって。

今回読んだ本はコロナ以降に出版されたもので、本のタイトルは「時代」に向けての弔辞なのだそう。いまもテレビに出演しているけれどあまり喋っていないように見えるのは、多くをカットされてしまうからとのこと。

「笑い」について、こんな言及がありました。

 芸人は芸人としての役目っていうのがあって、その原型っていうのはシェイクスピアとかにもちょくちょく登場する「道化」だ。王様の傍に控えて、雇い主である権力者の王に対しても遠慮なく毒舌ギャグをかますことができる特権を持っているんだけど、責任は負わずに済む。どんな毒を吐いても、王の悪口を言っても、王様が道化を処罰することはない。

 俺たち芸人はこの道化・ピエロの立場が理想的だと思う。毒を盛り込む形で本質的なことを言っても怒られたり、抗議されたりすることはない。

ビートたけしはつまらなくなったのか? より)

わたしはシェイクスピアは読んだことがないけれど、カーリダーサやモリエールの戯曲に出てくる道化の役割には毎回唸るものがあって、大好きです。

バラエティ番組に著名人がゲストとして出てきて “意外とお茶目” な面を引き出すのに芸人が機能するのは二重の意味で奴隷っぽさがあって、道化ではないんですよね・・・。

 

 

以下の「欠陥品」の話も鋭くて。

人間ていうのは欠陥品で、理想と現実の間に大きなギャップがあるからこそ、そこに「笑い」が生まれるんだと思うのね。

(「人間は欠陥品だ。だから笑うんだ」という深い話 より)

この欠陥品の話は、「美しい排泄」ってあり得ない。という、食べることと排泄のギャップについての語りから始まっています。

排泄については、わたしはインド人と日本人のトイレに対する感覚の差にものすごく色々思うところがあって、だからインドは特異なユーモアが発達しているのかと思うことがあります。

 

日本の場合は自分の排泄物を自分で見る前に流しちゃう技術の発達がすごいし、インドは身分を設定していて、トイレ掃除をする行為を屈辱と感じる人のその度合いすごい。

理想と現実のギャップの埋めかたのなかに笑いが生まれるというのは、興味深いお話でした。

 

 

神について言及される箇所では、以下の2つの視点が共存するところが、この人の魅力。

 なにか説明できないことが現実に起こったとき、説明できない部分を納得させるために人間がつくった存在が「神」じゃないかと思う。たとえば、狩猟時代に、なんで獲物が獲れたのか、獲れないのかっていうのが理由がわからない場合に「神のしわざ」っていう理屈が生まれたんだと思っている。

(科学と神様と人間の三角関係 より)

 

 そもそも政治なんていうのは、人が集まったから、自分たちに有利に動こうと相談したところから生まれたもので、敵対する者が出たら潰さなきゃしょうがない、っていうのが当たり前の理屈。ホモ・サピエンスが生き残ってきた理由もそれであって、宇宙の歴史から見たら人の誕生、人新生(じんしんせい)の時代なんて、わずかでしかないのに、その人間がすべての争いをなくすなんて神のような境地に達するはずがない。

(政治に何かを期待するほうが間違っている より)

前者の場合は祈る気持ちが起こるけれど、後者の場合は祈る気持ちは起こらない。

前者は藤子不二雄Aに近く、後者は藤子・F・不二雄に近い。これらを両方求めながら平和を祈る、共同幻想の築きかたの微妙なバランス。

「たけし」はこういう矛盾を鋭く見ながら葛藤してて、だから「文化人」の扱いになったのだと思うのだけど、社会に必要なのはやっぱり道化的な存在。

 

責任を負わずに本質を突ける人をどれだけ泳がせておけるかも含めての ”秩序” って、だいじよね。