うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

撒き餌を催促する行為に厳格な人

これはこの十数年のあいだ、何度も書くか書くまいか迷って結局書かずにきたことです。
そもそも書き方がむずかしいのと、理解されにくいであろうこと、時代の流れ的にこういう話は批判へ向かうであろうことなどなど、説明に時間を割くことが無駄に思えて書かずにきました。


━━ なんだけど。やっぱり書いてみようと思いました。
今日の話は、ヨガ講師はどこまでも受容的であるべきという考えを持っている人には読まないで欲しいのが本音です。それを踏まえてお読みいただければと思います。ふわふわ、ほわほわの「やさしいのがお好き」なかたは、ここでブラウザを閉じていただければと思います。

むかーしむかしの、昔ばなしじゃ。

 

 

 


わたしが初めてヨガを教わった、インドからやって来た先生は、いまの価値観では批判されかねない、そういう判断をする先生でした。
その先生は体験レッスンに来た人から練習の前に「痩せますか?」と訊かれて「それはわかりません。お金を返しますので、帰ってもいいですよ。痩せてから来てください。膝を怪我してもいけないし」と対応をされたことがありました。
スタッフには「いまはヨガ教室が他にもいっぱいある。わからないものはわからない。それでいい」というスタンス。


わたしは所属インストラクターの立場だったのでこのような対応によって守られることが多かったのですが、一方でデスクスタッフは難しい対応をすることになり(しかも来た人に「ごめんなさい」とも言えない)、大変だっただろうと思います。
先月、先生とのお別れの場(お寺)へデスクスタッフさんたちと一緒に行ったときに、わたしがそのことを思い出して話したら、立場は違っても同じように感じられていたことがわかり、うれしい気持ちになりました。

 


わたしは先生と時間のコマが前後することが多かったので、体験レッスンや入会初期で緊張する人とのクッション役になることがありました。
最初は緊張するけれど慣れたら楽しさは身体でわかるし、先生もやさしいし、それを伝えたい気持ちが心の中では溢れている。
でもはじめから成果の保証を求める人には気をつけなければいけないことも、先生と一緒にいることで感じていました。「撒き餌厳禁」というルールが染み付いているような。

 


「痩せますか?」なんて初対面でいきなり聞く人、そんなにいる? と思われそうですが、その質問が発生するのには、ひとつ理由というか流れがありました。
先生は体験レッスンにおいでになったと、はじめに少しお話をします。その時に、お名前・身長・体重・手術歴・職種を、座った状態で確認します。

これは先生のクラスに限ったことで、ほかのインストラクターのTO DOには入っていませんでした。痛いところや怪我をしているところはありますか? と聞く程度。

こういうことは他にもいくつかあって、それはたぶん、先生が自分の先生から習って踏襲してきたことなのではないかと推測しています。インドにいる頃は生徒さんの家へ行って教える家庭教師の形だったそうで、心身が強く柔らかく、適正なバランスになればいいのであって、という考え方。

 

体重を聞くなどのことは、日本人同士では遠慮すべきコミュニケーションであることを先生もわかっていて、「だいたいでいいですよ」と言いながら尋ねていました。

それでも、他の人もいる場で体重を言わせるなんて! と眉をしかめる人もまあそれなりにいて。
そこで返答と重ねて「痩せますか?」と催促するような切り返しをすると、冒頭に書いたようなコミュニケーションになったりする。すべてがこのパターンというわけではないけれど、わたしが一度見たのはこの流れだたっと記憶しています。
それでも自分のためにやりたい前提であれば(質問に対する反発を剥き出しにしなければ)、もちろんウェルカム。「あなたその身体でここへ来て、なんの恥ずかしいことがある? やれば気持ちよくなるから、まあひとまずやっちゃえばいいね!」と、こういう時の先生の、不安をガハハと蹴散らしてくれるやさしさは格別でした。

 

 

この境界を言語化するのはなかなかむずかしいのですが、先生は自分の身体をまるで他人のもののように話す人に対して、どこか厳しいところがありました。

それは、わたしが他の場面(ヨガに関係ない例)でいうと、パソコンを「何もしてないのに壊れた」みたいに言う人に対する怒りと似ていたように思います。

 

 
これはわたしの推測というか解釈ですが、先生の判断の中には、インドの以下の考えがそもそも根底にあったのだろうと思っています。

 

 

  「doership」 do - er - ship

 

 

日本語で「主体性」というと社会や他者もいる状況を含むニュアンスになりますが、個人の精神の部分、自分自身に対する主人性のようなところ。
先生は「身体が硬いんです」という人に対して、「自分で硬くしたのに人にされたみたいに言わないで」と対応されていました。これももたぶん「doership」の教えに近いものだったのだと解釈しています。

 

ビジネス本によく「自分ごと化」という言い方が出てきますね。
あの「化」が表面的なのか否かをなにげない会話の中で見抜かれる。なので、先生と話すときはいつも少し緊張しました。

 

 

━━ そんなこんなで、さかのぼること十数年。
(ぽややや〜ん)←回想のフキダシ

ヨガを習いはじめのころのわたしは販促やマーケティングの仕事をしていて、その仕事がリアルからウェブへ移ったことで起こる計測の因果関係に葛藤していました。
ウェブだと数字が明確に出るけれど、その数字を上げるために露骨に射幸心を煽ってはいけない。でも、「くすぐれば」上がる。黒に近いグレーと白に近いグレーがある。この境界で日常的に葛藤していました。数字が上がっても嬉しくない感じ。
撒き餌のような言葉を置いてクリックさせることは、まあできる。味を濃くすれば、そりゃあ釣れる。数字が明確に出るぶん、釣り場と撒き餌の選び方がよこしまな方向へ傾いた時にそれを指摘し合う習慣が組織の中でちゃんと機能していないと、人間性が崩壊する。

 

そんな日々だったので、ヨガの道場へ来て “人間性を問う判断を本気でやる人物” に会ったことが、とんでもない刺激でした。
先生は他人事のように自分のことを話す人に対して、「あなたのことでしょ?」というスタンスで接するところが一貫していて、そこがいつもこわくもあり、尊敬の念も感じる。

 

そして先生も、よく迷っていました。
「こういう話があるのだけど、あなたはどう考える?」と話しかけられることが、ときどきありました。
情と論理と信念の間で迷うこと、大切にしたいこと、可能性としてありうること、時代の流れ・・・、そういうことを、自分の意識を確認するために話されていたのだと思います。相手の母国語(日本語)でいろんな人に直接相談をして、他人の回答から認識・理解・常識や思い込みのバリエーションを集めて、考えを整理しているように見えました。

わたしはここ数年、年齢を重ねるごとに、他人に困りごとを相談していた先生の自己開示力をすごいと感じるようになっています。
パワーストーンなどのスピリチュアルなものに希望を移していく人の見守り方も、先生の近くにいることで「尊重しつつも関わらない」というスタンスを学びました。


平等は、自分で考えて行動しながら、恥ずかしいことも受け止めていく前提の上にある。しんどいけれどそういうことなのだと、先生の言動をたまに思い出しながら考えます。

わたしは自分が60歳くらいになった時に、あんなふうに周囲の人に自己をさらけ出して相談ができるだろうか。そんなの自業自得だと自分を責めることを先回りして反省を武器に防御するのではなく、ほんとうの勇気を持って前に進めるだろうか。

 

 

人が人に与える影響や教えには、いろいろな形がありますね。

今日は8月15日。日本悲しい日、インド楽しい日です 。