うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

ヨガのティーチャー・トレーニングの広告が釣り針になるとき

今年の夏に、こんなことがありました。

職場で顔見知りのAさんから、ヨガのインストラクター資格(RYT)について質問をされました。Aさんの顔と名前は知っていたけれど、そのときはあまりよく知らない人でした。

Aさんは以前わたしの隣の席だった人から、わたしのことを聞いたそうです。実は2年前から話してみたいと思っていたのだけど、コロナで在宅勤務になって話しかけるチャンスがなかったと言われました。

 

ヨガが大好き

Aさんはわくわくした声で話しかけてこられました。何年も長くヨガをされていて、資格取得に興味があるそうです。

具体的にあれこれ質問をされたので、ティーチャー・トレーニングを海外で受けたことがあると話しました。

 

いまは資格を取ろうと思っていなくても、ヨガに関する検索をしたり文字を打ち込めば、ヨガのティーチャー・トレーニングや資格取得講座の広告が表示されます。

画像を出す広告は単価の高いサービスか多店舗展開のヨガチェーンでなければペイできないので、訴求されるのは単価の高い長時間の講座やリトリート、資格取得の広告ばかりになります。

はじめてヨガをしてみたくて検索をした人にも表示されるわけなので、講座の内容も「未経験からはじめる資格取得。今ならオンラインで取得可能」という循環になっていきます。

 

 

検索広告以前の世界

わたしがヨガをはじめた頃はSNSmixiだけで、スマートフォンはない時代。

ウェブ広告はベタ張りか記事広告か枠に対するランダム表示で、現在のように「ヨガ」で検索した人向けに資格取得講座の広告がバンバン出ることはまだありませんでした。

修養として弟子入りしたい気持ちでヨガに興味を持った人は、本を読んだりメディア露出のある先生の教室へ行ったり、人づてに知り合うものだったんじゃないかと思います。

その頃を思い返すと、“すごい先生” を体験ショッピングのように探し回っている人がいました。わたしが初めてヨガを教わったインド人の先生のところへも、たまにそういう人が来ていました。

 

 

ホンモノ・ ニセモノで語る世界

昔のヨガの本を読むと、「ここで伝えていることはインドで古くから伝えられているホンモノのヨーガです。エクササイズのヨガは偽物のヨガです」みたいな表現を目にします。

もうその話は聞き飽きたという頃に以下のことを書きました。10年前です。

 

本物を「ホンモノ」とカタカナで書いたり、ギョーカイ用語風に「モノホン」と口語で言う人がバブル時代のあともいる。

三島由紀夫に関する本を読んでいたら、その言語感覚の根っこにあるものがじわじわ見えてきました。

 

外国に対する「力」へのコンプレックスが愛国心と絡み、戦争をきっかけに複雑になるなかで、漠然と共有される誇りの掛け声として「ホンモノ」「モノホン」があるのではないか。

わたしはそんなふうに見ているのですが、これはこれで、いまの感覚では重苦しく感じます。

 

 

ヨガが大好き、の先にあるもの

わたしは、ヨガが好きで楽しんでいる人のお話を聞くのが好きです。

冒頭の職場のAさんもそうでした。お話を伺ってみたら、ヨガが好きで気持ちがいいから少し先へ進んでみたいというお気持ちのようでした。お子さんが高学年になって、ひとりで行動するようになったというのもあるみたい。

わたしはこのとき、Aさんのこのタイミングでインド思想や哲学を差し込まれたら、ヨガを好きじゃなくなっちゃうかもしれないな、と思いながらお話を聞きました。

 

 

以前インドで受けたティーチャー・トレーニングの哲学の授業で、こんなことがありました。

わたしが深く考えずに口にした質問をきっかけに、「インド人ではない人がヨガを学ぶときには、神話学的な側面になじみにくいだろうね」と先生が話してくれて、そこからヨガとインド神話の関係、随所に見られる象徴化した表現の説明を受けました。

 

ヨーガの心理学的・神話学的な部分は、入り口までは誰でも興味がわいて楽しいもの。占いみたいな感覚で、スピリチュアルなアクティビティのひとつとして楽しんでいる人も多いと思います。

それ以降のところは、人間と自己をどう捉えているか、人生経験や死生観によって個人差が出てきます。

 

 

職場でヨガの気持ちよさについて語る、Aさんとわたし

冒頭のAさんは同業者なので、わたしと同じように広告の仕組みを知っています。

その上で、だからこそ、身近で社会生活を送る姿を知っているわたしに聞いてみたかったのだと思います。

広告表現には、物販でも無形商材でも、「本格」「本物」といった重み付け・権威づけの表現や、「変わる」「変える」というフレーズがよく使われます。

それが釣り針になるのはどんな精神状態のときか。広告表現に見られるマジック・ワードを見るたびにわたしはそこを観察します。ここは、仕掛ける側の視点です。

 

 

訴求を受け取る側の視点でも主体的に考えます。

広告が気になるタイミングとそうでないタイミングを観察してみると、気になるときは漠然と過去と未来のことを案じていて、気にならないときは目先の問題に取り組んでいるか、なにかを済ませた直後。

反応は広告で訴求されている商品を媒介に「過去と未来の自分」に対して起こっていて、自分をジャッジする人格が会議をしています。

それはひとりではなく、数名が卓を囲む感じで。

 

 

── と、こんなふうに自分の心を観察します。

あなたの場合はどうですか?

 

 

わたしはヨガのはじまりが「仕事のあとのご褒美」でした。

20時のヨガクラスに出たいから、もうエイヤっと切り上げるのだと、毎日のリズムを変えるきっかけになりました。週末の練習も楽しみでした。

そうだそうだ、そうだったねとわたしの心の円卓メンバーもうなずいています。

職場のAさんに話しかけられたことで、しばらく忘れていたことを思い出しました。