わたしはヨガクラスでヨガニードラを行うことが多いので、クラスの冒頭で「リラックス」を話題にすることがあります。
その際に、ときどきこの話をします。「リラックス」と混同しやすく、でも同じではないと教わった「レジャー」「レイジー」の話です。
わざわざ英語で、しゃらくさい。これだからヨガをしている人って嫌なのよと思うかたは、ここでブラウザを閉じてくださいね。
今日は少しルー大柴度が高くなります。それでもいいわって人は、どうぞこの先もトゥゲザーしてください。
さて。バイザウェイ。
この話をするとき、わたしは日本語を無理に整えずに話すようにしています。
自分が受けた授業が英語だったというのもありますが、特にこの話をするときに思うのは、「レイジー」を日本語にするときに、「怠けてはいけない」という軍隊教育(のような義務教育)を受けてきた人にとって、緊張を生まない日本語がないんですよね……。
なのでジェスチャーと英語で、この時だけルー大柴になったほうがいいと、そういうわけです。
ただ説明を聞いているだけで自分が責められている気がする。そういうことってありませんか。わたしはあります。
それは受け手の認識の癖もあるけれど、日本の教育・文化によるところも大きいと思っています。
「おしん」スピリッツを刷り込まれた世代は特に!(笑)
さて。そんでね。ネクスト。
今日は「リラックス」の話です。
リラックスは、自分を盛り上げるような気持ちがあったり、逆に自分を責めているときには起こっていません。
↑これがわたしなりの説明なのですが、
わたしの先生は以下のようにお話しされていました。
leisureにはtaxingがあります。relaxationにはそれがありません。
もう少し長く、以下にも書いています。
レジャーもリラクゼーションも日本語にするとどちらも”余暇”になりますが、今日は意識の話です。
先生は、relaxationと同じではないものとしてlazyも挙げていました。
激質的な休み、暗質的な(あるいは鈍質的な)休み、純質的な休み。
純質には負担(taxing)がない。先生は、そういうことを伝えたかったのではないかと、練習と観察を続けた自分の身体経験からそう思っています。
休んでいる状態が激質的でも暗質的でもない状態であるためには、わたしは自分自身に対して足るを知っている状態であることも重要と感じています。
自分は役割を果たしたと思えることで、暗質的ではない(lazyではない)休みを得ることができます。もうええわ、と思えるところまで身体を動かせば激質も残りません。
精神を癒してくれるのは、そこからの休み。肉体はリラクゼーション・サロンでほぐしてもらえるけれど、精神のほうは「わたしは役割を果たした」と思える土台の上にある気がして。
セラピストをしている友人から、こんな話を聞いたことがあります。
マッサージへやって来る人のなかに「わたしはこんな活動をしていて」「自分はこんな勉強をしていて」「自分はこんな運動をしていて」「自分はこんなに重要な役割の仕事をしていて」と、”自分はこんなに” という話をする人が少なくないというのです。
わたしはいつも無言ですぐに寝てしまうので、横になった状態でそんな前向きな話をする人がいると聞いて意外でした。でもリラクゼーションのために帳尻を合わせようとしているのだと思うと、なんだかわかる気もします。
わたしは他人に会話で ”自分はこんなに” の話をすることに抵抗があります。ブログにはあれこれ書くのに不思議だなと思うのですが、会話でそれをするのが苦手です。
だから運動をするヨガと瞑想の組み合わせが合うのかもしれません。
自分自身の実感として、そのように捉えています。
余談ですが、
インドの人は ”自分はこんなに” を、驚くほどバンバンやります。人口が多いからそれくらいじゃないと這い上がれないのだと本で読んだことがあります。
そのような国でヨガが開発されたことが、いつも不思議でなりません。
ホワーイインディアンピーポー!