うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

阿部一族  森鴎外 著

その価値基準がどうにもわからないと思いつつ、でもそれは確実に存在している。しかもその性質は地味に生き続け、なくならない。この物語は「殉死」がテーマ。

これは他の言葉を探すと「風土」が近いだろうか。「時代の価値観」と言うとそれらしく聞こえるけれど、「時代の」を取ったら成立しなくなるあたりが脆いし、そもそも価値を見極めないまま命を切り盛りしようとしている。となると「時代の死生観」になるだろうか。


世間知らずのわたしにとって、「殉死」というワードは、太陽にほえろで刑事が死ぬ「殉職」と似た印象で……(文字のせい)。実は30代の後半になって夏目漱石の『こころ』を読むまで、時代ごとの意味を気にしないまま生きてきました。

もちろん、戦場で亡くなった人たちが "そういう気持ち" を持っていたことはわかるのだけど、戦争を知らないわたしは「殉ずる」がピンとこず、『こころ』を読んでも、「なぜ一般人が?」と、その感覚はまったくわかりませんでした。

「明治の精神に殉死する」って、当時ならサクッと理解された考えに便乗したってこと? 自分が空っぽなのがつらいってだけでしょ? 逃げでは? くらいに思っていました。

 


そんなわたしが、この『阿部一族』を読んだら、なんと「殉ずる」を “感ずる” ことができました。いろんな人の「殉死」への執着が描かれていて、しかもそれぞれ、事情とこだわりの背景が違う。各自のパターンと心理がセットでするする入ってきて、出てくる人たちの名前は五右衛門みたいな名前ばかりだし、なんなら新免(宮本)武蔵も出てくるほど昔の話なのに、見栄っ張りな親戚のおじさんたちの裏事情みたいに読めてしまう。


さらにすごいのは、そこまで手に取るように感じさせてくれた上で、自分のそれまでの考え(当時ならサクッと理解された考えに便乗したってこと? 自分が空っぽなのがつらいってだけでしょ? 逃げでは?)が、あながちズレていないことがわかってしまう。
こつこつ日々を重ねて生きていくことよりも、人生の価値の重きが「周囲からの扱い」に置かれていることに驚きが止まらないし、人の命が軽すぎる。モラルハラスメントがまかり通っていて、それに反発するように意地になって死のうとする関係性は、まるで幼児がやる「試し行動」みたいで大人の話と思えない。

だけど、そこに妙にリアリティがある。だって会社組織やさまざまな業界、お笑い芸人や歌手・タレントの人脈アピール世界を見ているのとそっくりなんだもの。

 


現代を生きるわたしにこの驚きの感覚をリアルに起こさせてくれる森鴎外は、書き手の存在が5%くらいにしか感じられない書き方をします。
しかも、その5%をちょろっと出すときの心理描写が頭がクラクラしそうなほど巧み。5%で一発KO級の要約をしてくる。

しかし細かにこの男の心中に立ち入ってみると、自分の発意で殉死しなくてはならぬという心持ちのかたわら、人が自分を殉死するはずのものだと思っているに違いないから、自分は殉死を余儀なくせられていると、人にすがって死の方向へ進んでいくような心持ちが、ほとんど同じ強さに存在していた。反面から言うと、もし自分が殉死せずにいたら、恐ろしい屈辱を受けるに違いないと心配していたのである。

見栄しかない状態に自分で自分を追い込んだ人間にとっての、死の軽さと自己のなさの共依存関係をこんなに少ない文字数で書いてのける。プロだ!

 

21歳の青年がプライドが傷つけられる苦痛を逃れるために死にたがる急ぎっぷりも、リズムに若々しさが溢れています。

ただ一刻も早く死にたい。死んですすがれる汚れではないが、死にたい。犬死でもよいから、死にたい。

これは会社に喩えると、人事発令の背景が前提と違って、なんだか自分がダサい感じになってるじゃないかーーー! みたいな怒り。それで、ここまで自分を思いつめる。「死んですすがれる汚れではないが」が大げさすぎて、若さが炸裂している。

 


老人と女と子供の命はさらに軽くて驚きます。

 阿部一族は討手の向う日をその前日に聞き知って、まず邸内を隈なく掃除し、見苦しい物はことごとく焼きすてた。それから老若打ち寄って酒宴をした。それから老人や女は自殺し、幼いものはてんでに刺し殺した。それから庭に大きい穴を掘って死骸を埋めた。あとに残ったのは究竟(くっきょう)の若者ばかりである。

もうすぐ引っ越すからその前にいったん断捨離しとく、みたいな感じで人の命を整理する。差別や戦争による虐殺よりも、この感覚のほうが恐ろしい。

でももし自分が当時この環境で生きていたら、宴のあとに死ぬ女のひとりだったのだろうし、なんならその決断の早さを自慢するような、高揚感に呑まれたりもしていただろう。宴を抜け出しても行き先がないんだもの。

 

この話はいろんな意味で奇妙な価値観だけど、自分にはそれを受け入れる心の種がしっかり植えられている実感もあったりして、インドの女性にとってのサティーもこんな感覚なんじゃないかと思う。
恥の概念で追い詰めていく社会秩序のあり方がこの国のデフォルトだと、それを理解するOSがプレインストールされたPCのように、しれっと自然に起動できそうな実感がある。

 

目上の人から選ばれなくても、生き恥を晒していると感じても、それでも助け合える誰かとひっそり手に手をとって生きていける。居場所を変えて生きていける。そういう精神を個々人の中でしっかり育てていかないと、このパターンは繰り返される。それくらい根深い。

それを実感するために、死ななくてもいいのに死ぬことになる人々の心に一度ぐっと近づいてみる、そういう経験をさせてくれる物語でした。