先日、昔の映画をたくさん観ている友人と話しながら「三船敏郎の “無骨さ” が、(高倉)健さんに “不器用” という形で引き継がれていったあとって、そのポジションの人いなくない? 誰か思いつく?」と訊かれて、しばらく考えたけど思いつきませんでした。
そのあとに友人が言っていた「現代はもう “不器用” がなくて ”コミュ障” になっちゃうんだよね」という話が印象に残っています。
携帯電話が登場し格安スマホの時代になって、いまは端末を持っていないことを不器用とは言わないし、なにか事情があるという見かたをされるのが実際のところじゃないか。
そんなこんなで男性にとっての “不器用” がなくなったように、女性が失った客観的な性質って何だろう。
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この小説を読んでいる時間が、まさにそれを探す体験のようでした。
不器用になるのは何かの思考をシャットアウトするからで、そうやって何かの意思表明を拒絶するからには、代わりに何かを引き受けなければなりません。健さんはそれをするから “健さん” なのであって。
「責任は取りません。不器用ですから」というロジックを社会は許さず、何らかの因果応報がはたらきます。
その因果応報を、現代を生きる20代の無職の女性が引き受けている真っ最中!この小説はそういう物語に見えます。
誰かを犠牲にして自我を通すことで他人に迷惑をかけている。
この事実を誰もが想像して他人の迷惑を気にして生きるけれど、他人からそれが本当に迷惑だと思い知らされる行為に、心が耐えられない。頭の中で理論武装する器用さが研ぎ澄まされていく。不器用になれない。
それでもこの物語の主人公は “不器用” を実行したいと思って何度もチャレンジします。
スマホの登場によって男性から “不器用” がなくなったように、女性もなにかを失っています。それはたぶん清らかさを伴うもので、スマホを持っている以上はもう清らかでないことが証明されています。
皇室のお嬢さんたちがSNSの誹謗中傷に胸を痛める時代に一般人がどんなに頑張ったところで、「その清らかな設定は愚かに見えますよ」という評価がもれなくつきまとう。以前は “奥手” という名前がついていた逃げ道がなくなっていく。女の不器用の道も、もはやとっくになくなっている。
この小説に登場するミクルちゃんが自己を客観視して二重に三重にメタ化して苦しむ様子を見ながら、なるほど若きモンスターカスタマーはこのようにして爆誕するのかと、納得はしないけれど一緒に心を痛める時間。
ジャッジしたり時代を斬るような感想が湧かないスピードで主人公の脳内世界に連れて行かれます。