他人に対して「終わっている」という表現を使う人は終わっている。←というふうに「終わっている」という表現は使われるほうがいい。そういう世の中であってほしい。
他人に対して使われる「痛い」の場合は、その痛みを知っているから使っている可能性があるという点で逃げ道もあろう。だが「終わっている」にはそれがない。それを使いだしたらほんとうに終わってしまうよ。なにが? そこで終わるものについて考え出すと頭がぼんやりしてくる。
この主人公は他人に対して「終わっている」という表現を使う。頭の中は理論武装ばかり。渡る世間は邪鬼ばかり。そして主人公が他人に下すジャッジを見るたびに、こういう思考の癖は克服したほうがよいものだという意思を持たないまま生きていく世界は地獄だろうと思うのだけど、地獄も住めば都らしい。
この主人公のような人は、そんなに少なくないように思う。この小説を読みながら、そう思った。
何年も前から、僕の言葉の大半は、何かの言い訳のようになっている。
主人公がこんなふうに自己分析する場面でそう思った。「何か」の言い訳は、生まれてきてしまったことへの言い訳だろうか。小説の中ではそんなことは書いてなかったけれど、言い訳をする感じはわかるし、その理由をわたし自身が掘り下げると、なんとなく「存在していてごめんなさい」という気分が浮き上がってくる。
わたしはよく正気でいるためにとか狂わないために、という考え方で内省をするけれど、この小説にはいろんな反面教師が出てきた。もし生まれてきてしまったことへの漠然とした罪悪感があるのなら、自分が黙っている以上に周囲が黙ってくれていることのほうが多いだろうと思って生きていくのが得策だ。ただのポジティブじゃない。何周も回ってのポジティブ。
この小説には、半周くらいしかせずに「謙虚」という言葉を使う人が出てくる。そのセリフにびっくりしながら、感謝とか謙虚とかポジティブとか、そういう心のありようについて考えた。