わたしは運動をたくさんやってきて、リズム感もそこそこあって運動能力が低くないことを自負してはいるのだけど、メンタル的には大縄跳びが苦手。もしそんな場面に出くわしたら「お金を払うので帰っていいですか」とか、たぶん言う。中年なのに。こういう種類の不器用さに誰か名前をつけてください。
なんてことを態度には出さないけれど長年こっそり思っていたら、そっと光を当ててもらえた。
この物語の中では、ありとあらゆる場面でこの種の不器用さが発揮される。
友人から過去のつらい経験を打ち明けられ、その友人は気をつかってなのか「それでも、自分には恵まれていたこともあった」というふうにして話をクロージングしようとする。自分はうまく言葉をかけられず、打ち明け話をした友人も自分の反応を待つ数秒が重くて「ごめん」という。
こんなふうなやりとりを、友人でなくてもなにかの機会で事情を打ち明けることになった他人との会話で経験したことはありませんか?
わたしは具体的に思い出せることがいくつかあるだけでなく、たとえば他人の書いたものを読んでいるときなどにもこういう瞬間はあって、そんなとき、相手とのコミュニケーションというよりも、自分とのコミュニケーションのなかでやり場のない気まずさが起こります。
こういう込み入った気まずさを、書いてしまえるすごさ。
この小説の終盤に、友人の打ち明け話を聞き、そのあと「ごめん」といわれ、主人公がこんなふうになる場面があります。
わたしは全力で首を振り、自分でもなんで首を振っているのかわからなくなるぐらい振った後に、もういいよ、という曖昧なひとことだけが口をついた。そしてすぐにそんな自分を恥じた。より正確に言うと、自分を恥じることに逃げ込んだ。
気まずさという感情にもいろいろあると思うのだけど、自分自身に対する気まずさというのはどう扱ったらよいものだろう…。
主人公は序盤で自身のことをこんなふうに語ります。
まるでアプリケーションをたちあげすぎたOSのように、処理能力が低い
あちらこちらを見遣りながらも、結局そうなってしまう自分。コミュニケーションに強者も弱者もないと思うけど、「この主人公は、わたしか?」と思うところの多い小説でした。
あんまりわかりやすく鼓舞されるとヒいてしまうという人に、なんだかすすめたくなる小説です。