他人の機嫌も自分の機嫌も、とるものではなくととのえるもの。このことに気づくまでここ数年でいくつかのきっかけがあったのだけど、昨年それがひとつのかたまりになったような会話がありました。久しぶりに会った友人とインドカレー屋でランチをしながら気がつきました。
自分の敵も味方も自己であることは、何年もバガヴァッド・ギーターを読んでいれば刷り込まれること。だけどわたしは敵も味方も実像がつかめない期間が長く、わたしのなかのミニうちこ軍の闘争を見ていると頻繁にメンバーが入れ替わってちっとも形勢が読めない。
そのごちゃつきを整理する助けになったのが、昨年読んだ「デミアン」という小説でした。この主人公の苦しみはわたしの苦しみでもありつつ、その葛藤を他者の立場で少し離れて見せてくれる。勝手に忖度して勝手に恩を着せて不機嫌になるというパターンをていねいに退けていくことが平穏な時間の礎になることを教えてくれました。そしてあきらめと覚悟は藪の中。
わたしは新たに人と会ったり複数名の前で話すことの総量を数年前から意識的にコントロールするようにしています。コミュニケーションをわずらわしいと感じる、そういう種類の不機嫌を発生させないために、誰かに会いたい顔が見たい関わりたいと思うくらい少しだけ飢餓状態にしておく。いっぽうで、急におしゃべりが止まらなくなるようなことが起こらないよう、言葉を選ぶ作業を簡略化させてもらえる(=話しやすい)人と定期的に会う機会を設ける。そういう細かな調整がとても大切であることを身に沁みて感じるようになっています。
なので子育てや介護をしたり部下を抱えながら「まったく! 当然やってくれるものだと思ってわたしをあてにして!!!」というような毎日を過ごしているであろう人を見ると、言葉にするのが難しい共感がわきます。久しぶりに会った友人と話しているときもそのように感じていました。友人は子育てをしながら講師の仕事もしています。そしてそのお子さまがたは受験の年を迎え、今はつかまえようのない近い未来と戦っている。
友人の「自分の機嫌が悪くならないようにしている」という投球をきっかけに、わたしも思いを重ねました。自分で自分の機嫌をコントロールすることについて、わたしは生活・仕事の構成全体で吸収しようとしていること、それがこれまでの失敗や不器用さからたどりついた方法であることを話しました。「そういうふうに考えるんだ…」と言われました。いろいろなことを感覚的にやっているように見えていたようです。(彼女はわたしのヨガクラスに参加しに来てくれたことがあります)
「環境設定から調整しないと自分の技能だけではうまくできないから、そうしている」というわたしの考えに少し驚いたようでしたが、よくよく考えると友人も同じように対応しようとしている。
はたから見ればインドカレーを食べながら中年女がぺちゃくちゃ喋ってるようにしか見えないわたしたちだけど、それぞれが細かい矛盾を抱えながら暮らしている。そういう話を出会ってから20年後にするなんて、年齢を重ねないとできなかったこと。
うまくいってもいかなくても、生きてみるもんだね。