うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

グッドではなく、ベター。マイナスをゼロにできればいい、くらいにしか思っていない


わたしはたまにアーサナのクラスの前に「ヨガを続けることで気づいたこと」を話すのですが、すでにお会いしている人には「ヨガをはじめたきっかけ」よりも「続けている理由」のほうが興味深いようです。そりゃそうか。もうはじめてるんだもんね。
先日、銀座ヨガのクラスで男性の人数のほうが多かったので、男の子向けコンテンツとして「パワーとフォースの違いがわかるようになった気がする。わたしはこう捉えている」という話をしたのですが、あとで女性から「今日のパワーとフォースの話、おもしろかったです。ヨガをしても、やさしい気持ちになれないことが気になっていたので」と言われました。


このコメントが少し気になったので、考えました。
わたしは「より幸せに」「より楽しく」というのは目的としてピンとこないので、「やさしい気持ちになれない」というような感覚を抱いたことがありません。どちらかというと「まだへんな力が残ってるな。燃やしかた間違えたかな、燃やし足りないのかな」という感じです。
「より幸せに」「より楽しく」は、結果の感覚としてはわかるのですが、それはドラッグの領域と思っています。たしかにヨガにはそういう効用を感じる場面があります。様々な段階で、あります。ものすごくたくさんあります。
わたしはその瞬間を知り尽くしているといっていいくらい、よく知っているほうではないかと思います。ものすごい練習強度の日々から、しれっとオフィス・ワークの日常に戻るということを難なく往復しているように見えるかもしれないけれど、その過程でさまざまなギャップに直面してきました。直面したというか、ふつう直面するんですけど、そこで誤魔化さないように気をつけてきました。
ここを誤魔化して高揚感を求める癖がついてしまうと、実社会でやる気を自家発電できにくくなる。わたしは、これがヨガのダークサイドだと思っています。置かれている仕事環境への恨みの感情(辞めてやる! みたいな思い)をヨガに転嫁して「インストラクターを目指す!」というストーリーを描く人をインドでも日本でもたくさん見たので、ずっと気をつけてきました。
わたしはスター・ウォーズが大好きで何度も観ているので、なにかへの当てこすりのようにヨガにハマっていく人は、アナキン・スカイウォーカーに見えるのです。



で。指導側になるときは
オビ=ワンみたいな葛藤をしたくないな、と思います。
オビワンというのは、スター・ウォーズに出てくる剣技の先生です。



わたしがヨガの指導をする時のスタンスは「昔カルピスを原液でラッパ飲みするくらいハマったから、薄めたカルピスをみなさんがおいしいというのは、よくわかりますよ」という、熟練カルピス師のような意識。練習する人と同じ気持ちになって「カルピス、おいしいよね〜☆」と、クラスを盛り上げているけれど、その成分を知り尽くした上で、常に計算して薄めながらやっています。繰り返しいっしょに練習している人のことは、それぞれの人がどの濃さで希釈しておいしいと感じているかも、毎回観察しています。



自分の練習の時は、最近はモードを二つに分けるようにしています。

  • カルピスを飲むモード

きびしめの先生がガイドしてくれるクラスへ行きます。で、グビグビ飲む。とことんいく。

  • カルピスを作るモード

何倍で薄めるとこのくらいまで感じる、これ以上濃くなるとこのへんの感覚が鈍くなる、などの観察をしながらやります。
なにか観察モードに火がついてしまったら、そればっかりやって終わることもあります。呼吸法だけのときもあります。



前者の練習の場合は、身体が疲れて爆睡できます。
後者の場合は、意識の器(マナス)が疲れて爆睡できます。
毎日死んだように寝て翌朝生まれかわって、毎日排泄するのが、わたしが気に入っているヨギック・ライフ。
身体の便が出ると、心の便も出るから。(←これはよくハタ・ヨーガのクラスで言っています)


1年くらい前までは、自分の時間の中で「飲む」と「作る」が混ざっちゃうことがあったのですが、「カルピスを作るモード」でマットの上に立つ時間を増やすことで、「カルピスを飲むモード」の練習に集中できるようになりました。
以前はなにかひらめくとメモしたくなったのですが、いまは「身体が覚えてくれているから、紙にメモしなくても 必要な時には自然に出てくる」と、余裕で構えられるようになりました。「おしおきは神のしごと」であるのと同じように「ひらめきも神のしごと」と思っているので、わりとボケーッとしています。


ガツガツ成果を獲りにいきたくなるワイルドなわたしと、学者のように研究観察するインテリジェントなわたし。同じ肉体の器の中で起こっているから「わたし」と感じるだけで、どっちもかわいいし、どっちもウザい。
この、「かわいい」と「ウザい」のモードがゆれるときが「タマス」「ラジャス」「サットヴァ」というグナの比率の変化。チッタの種。
こうなったときに、そのモードの揺れを、「だれ」が判別しているのか。わたしがわたしを見ている、見ているのは、誰なの?
これが、プルシャです。


途中からなんの話か、わかんなくなっちゃった人、ごめんなさい。
わたしのヨガの学びを日常に落とし込んで話すと、こういうふうになります。


▼おまけ:今日の話題が刺さった人へのおすすめ本
問題は、躁なんです 正常と異常のあいだ 春日武彦 著