うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

みんなの共同幻想、ワシらの共同幻想

そもそも幻想であることも、
それでも共同だから成立することも、
そしてそれを成り立たせる共通言語が経済であることも、
それぞれが個人単位で受け容れていた。

わたしは世界的スポーツイベントをそういうものだと思っていた。
5年くらい社会人をやれば、こういう種類の夢の受け容れかたも身体的に身についてくるもの。

 

なんでもよくよく考えていたら、決断なんてできないのだし。
だからイメージの魔法を使う。使いかたも体系立てられている。
そしてその魔法が続けば実際に奇跡も起こせるのだろうと思います。
わたしは見えない力があると考えるし、それを否定する悲観論者でもありません。

 


それでもわたしは、祭典仕立てのイベントの開催については、絶対にその存在を明かしてはいけなかった意識があると思っています。
それは、

 


   ワシらの共同幻想

 

 

のノリ。
あれを見せられてしまっては、心理的に祭りではなくなってしまいます。自分は部外者だから。
せめて神様だけは、人間様はさておき神様だけは自分を排除しない、見捨てない存在と信じたい。
祭典仕立てのものである以上は、そこだけはハズしちゃいけなかった気がするのです。
問題か問題でないかの分岐が「女性の人権」になってしまっていたけど、そこじゃないよね。

 


部外者にした範囲が広すぎることが問題なんじゃなくて、初めから「ワシら」の感覚だったことがありありと見えてしまったことが、失望を盛り立てた。盛り立てちゃった。
怒らせたのではなく、積年の失望に火をつけたことが問題なのに、そこがすり替えられてしまっています。
「ワシら」から見れば、ヒステリーは考えがまとまらないから話が長い、以上。ハイ、次。という処理。
親族でも会社でも、規模に関わらず「組織」で見慣れた光景です。

 

 

人は個人の努力の限界や無力さを感じることがあるから祈るし、願うし、儀式もするし祭りにも参加する。漠然と参加する。
表面の華やかさの奥にある力を信じたいと願っているから参加するし、それが人生に参加することじゃないかと心のどこかで思っているから、賛同していなくても邪魔はしない。
人のそういう心のはたらきに乗っかって進んでいくのが祭典仕立てのイベント開催だと思っていました。そういう「漠然」を利用して進むものだと思っていました。

 


そもそも祭典ではないことをやろうとしている、なんとか成功ということにしようとしている。そういうフェーズにいることを「ワシら」だけでなく「みんな」と共有するにはどうしたらよいか。
神のような概念をこしらえるクリエイティビティを精鋭の「ワシら」は数ヶ月で発揮することができるのか。


排他的になるということは、奇跡の可能性もアイデアも排除することになる。そういうトレードオフを抱えたうえで、どうするか。
これってどんな仕事にも共通することね。