今年の2月に、遠藤周作著『海と毒薬』の読書会をしました。
わたしが設定している場では、いくつかテーマをピックアップして話す時間を設けています。
一定の熱量、複数の視点の交わるテーマを見極める目的もあって、事前に宿題を設定しています。せっかくの読書会なので、日常ではしない話をしたくて。
この回では『海と毒薬』第一章の最後の会話を取り上げ、そこに多く時間を割きました。
今日は、わたしがヨガをする人たちとこの小説のこの部分を掘り下げたいと思った理由を書きます。
心身を整えるためにヨガをされているかたで、これから『海と毒薬』を読んでみようと思うかたは、ぜひ先に小説を読んでから、またいつかこのページへ戻っていただくのがよいかと思います。
『海と毒薬』第一章の最後に、こんなセリフがあります。
「神というものはあるのかなあ」
「神?」
「なんや、まあヘンな話やけど、こう、人間は自分を押しながすものから —— 運命というんやろうが、どうしても逃れられんやろ。そういうものから自由にしてくれるものを神とよぶならばや」
ああ、この人(戸田)は、黒い運命から逃げる努力をする理由づけ、導き手を探しているのだろうな。
わたしは、そんなふうに感じていました。
わたしは昨年から『ヨーガ・ヴァーシシュタ』という聖典を読んでいるのですが、この読書会の頃はその中の以下を読んだばかりだったので、この人(戸田)は、実は真面目に努力をしてみたい人なのではないかと思いました。
もし、「神が私を養ってくれるだろう」と言って怠惰になるとすれば、それもまたニヤティによる。
(ヨーガ・ヴァーシシュタ 64)
ニヤティについては
この少し前の部分でカッコ書きの中で以下のように訳されています。
(物事の本質を定める絶対的な力、天命、運命)
わたしには、『海と毒薬』の第一章の最後の会話が、それ(ニヤティ)についての会話に感じられて。
ふたりの人物が各自の定義を探っているかのように見えました。
こういう会話を読んでいる時は「8時だョ!全員集合」でオバケが出てくる時に「志村、うしろーーー!!!」と思う瞬間と同じように「それ、自分で決めるとこ!!!」と小説のいち読者としては思うのだけど、自分の幸せの定義を日々確認できていないと流されてしまうのは、日常の小さな決断の中でも起こる。
『ヨーガ・ヴァーシシュタ』64のニヤティの説明は、以下のように続きます。
ルドラのような神でさえ、このニヤティを変えることはできない。だが賢明な人は、それを理由に努力を怠ってはならない。なぜなら、ニヤティは自己努力として、自己努力を通してのみ作用するからだ。
「神でさえ、このニヤティを変えることはできない」と言われたら、『海と毒薬』の研修生の二人はスねてしまうだろうか。だったらなおさら意味がないと開き直るだろうか。
『ヨーガ・ヴァーシシュタ』では、神でさえ変えることができないことを、賢明な人は努力で超えていくのだとヴァシシュタがラーマに説いています。
ヨガってスピリチュアルでふわっとやさしいイメージがあるけど、根っこの根っこは、この感じをあえて口語で書くと「自分のことなんだから自分で癒やせコノヤロウ」(←ビートたけしのモノマネをする松村さんヴォイスで)と言われていると感じる。
なんか、そういうところがある。
なのでわたしは、人間社会の中での葛藤については、ワンクッション置いて考えることのできる小説の力を借りています。そういうわけなのです。
わたしはもともと注意散漫で、30代後半から年数をかけて、だんだん昔の小説や長い小説を読めるようになりました。