うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

ケーキの切れない非行少年たち 宮口幸治 著

少し前に、ストレスについての本を読みました。

スタンフォードのストレスを力に変える教科書』という本です。

この本を読んでも、私はストレスそのものについてはよくわかりませんでした。

すでに多くの人がその「ストレス」とやらを捉えることができている前提で書かれている本は、どうも自分には難しい。

 

そんなわたしでしたが、この『ケーキの切れない非行少年たち』を読んだら、ストレスそのものに近づけた気がしました。

これはこの本を読んだ上でのわたしの理解ですが、ストレスというのは未整理の怒りで、言語化せずに溜まったもの。不満に至らない状態のものと捉えるとしっくりくる。着火したら燃える可能性のあるもの。のようです。


このように一度じっくり考えてみると、先の(スタンフォードの〜)本で提示される「ストレスを(よい)力に変える」ということも、段階を踏んだらできるのかもしれないと思えてきますが、そんなに単純な話はないよなぁ、とも思う。

先の(スタンフォード大学の心理学者の)本は、言語化しようと思えば怒りを言語化できる人向けの内容です。

 

わたしは自分で自分の怒りがよくわからないことがあって、自分が嫌味を言われているのにわかっていない、ということもよくあります。

言語化しようと思えばできるけれども面倒くさがっているのか、つらい事実から目を背けたいのか、そもそも日常の出来事を捉える能力に問題があるのかどうかって、どうやって見分けたらいいのでしょう。
わたしは自分が日常の出来事を捉える能力を人並みに持っているのか自信がありません。なのでこの本(ケーキの〜)の前半は、自分のことが書かれているような気持ちで読みました。

 

犯罪にいたる理由には、不適切な気持ちを下げることができないという段階があるそうで、この本では以下のように説明されていました。

「○○したい」という気持ちは、その人間のそれまでに生育歴、生活パターン、思考パターン、対人関係パターン、倫理観などが関係してきます。これらを変えるのはなかなか困難です。認知行動療法は主に不適切な思考パターンの修正を扱っています。
(第3章 感情は多くの行動の動機づけである より)

少し前に別の本(リクルートの創始者・江副浩正さんの伝記)を読んでいる時にも思いましたが、社会の常識とずれていく時の自己の捉えかたは、大人であっても難しいもの。わたしには経験からその実感があります。

 

 

この本は第6章で、本当は多くの人が気づいているはずの以下のことにしっかり触れています。

  • ”褒める” ”話を聞いてあげる” は、その場を繕うことにしかならない
  • そもそも「自尊感情が低い」ことは問題なのか


この部分を読みながら、わたしは何度かこの本の内容を想起しました。

この本にはストーカー当人がそれを理解することがいかに大変かということが書かれているのですが、必要になるのは思考パターンの修正です。
その必要性が当人の中から “起こる” まで待つというのがいかに大変なことかを思い知らされる。

 


『ケーキの切れない非行少年たち』では、そこで必要になるプロセスについて、以下のように説明されています。

 人が自分の不適切なところを何とか直したいと考えるときは、「適切な自己評価」がスタートとなります。行動変容には、まず悪いことをしてしまう現実の自分に気づくこと、そして自己洞察や葛藤をもつことが必要です。適切な自己評価ができるからこそ ”悪いことをする自分” に気づき、”また悪いことをやってしまった。自分って何て駄目な奴なんだろう” ”いつまでもこんなことをしていられない。もっといい人になりたい” などといった自己洞察・自己内省が行えるのです。そして、理想と現実の間で揺れ動きながらも、自分の中に「正しい規範」を作り、それを参照しながら “今度から頑張ろう” と努力し、理想の自分に近づいていくのです。そのためにはやはり、自己を適切に評価できる力、つまり “自分はどんな人間なのか” を理解できることが大前提なのです。
(第7章 共通するのは「自己への気づき」と「自己評価の向上」 より)

犯罪を犯していなくても、行動変容には自己洞察と葛藤が必要になる。わたしはたまたま別の方法でそれを学びましたが、その教えだって、理解したいと思ったきっかけは “たまたま” です。そして自己洞察と葛藤に向き合うのも、たいへんなことです。

 自分の中に「正しい規範」を作り〜、のところはヨーガニードラーの練習に出てくるサンカルパと同じはたらきを担うものかと思います。これは日本語で「サンカルパ 例文」と検索する人がいるのをデータで見て感じるようになったことですが、大人であっても自己評価を自分で下すための基準を「他者」を含めた世間の中で探そうとする人が多いのが実状じゃないかと思います。

そういう癖がついてしまう教育が長年重ねられてきた社会のなかで、年齢や(本書でザルと言われているような)能力テストをベースに世間に放たれることが、認知が大きくずれたまま日々を送る人にとって、どれだけ無茶なことか。

 


誰かのためにいい人間であろうとするって、実はもろい要件です。それを教えてくれるのは、他の国では宗教が担っていたりするのだろうけど、それに代わるものがずっと見つかっていなんですよね。わたしも日本語の母国語の感覚でこういうものが見つけられたらいいのに、とよく思います。

この本の著者が指摘するように、 ”褒める” ”話を聞いてあげる” で先送りしてる。
世の中のシステムがそういう状況にある中で、一定数の人がこぼれ落ちるリスクに対し、著者はこの本の中で認知機能のトレーニングの必要性を提示しています。


たとえ犯罪を犯していなくても、いっけん普通に暮らしている人間でも、ソフトスキル(様々な場面での対人コミュニケーション技術)を更新し続けることができなければふるい落とされるかのような、脅しめいた「対応力」「適応力」「アップデート」の必要情報が世間にあふれるなかでバランスを取っている。

この本の内容は自分ごととして妙に刺さりました。