今日のタイトルの4文字はできれば使いたくない文字列ですが、先日以下の本を読み、そのなかにあった内容が自分の経験と重なりました。
この反省をいつか言語化したいと思っていたものが、ものすごくわかりやすく書かれていました。
この本のなかに『常に「意見」を求められた職場』のお話があります。
そこに書かれている訓練と同じようなことを、わたしはインドで受けたヨガのティーチャー・トレーニングで経験しました。「その質問は重要ではない」と返される経験です。
今日はタイトルで目を引くためにわざと「斬られた」という書き方をしましたが、もちろんいまは斬られたと思っていません。いつかその違いについて言語化したいと思っていたのですが、できずにいました。
それを、ちきりんさんの本では、ものすごーーーくわかりやすく書かれていました。
以下は、まさにわたしが先生から最初に斬られたところです。
発言者の立ち位置に影響を与えない細かい質問は無意味だと教えるため、自分の意見を言う前に質問しようとする人には、「その質問の回答によって、あなたの意見はどう変わるのか」を、質問前に明確にするように求められるのです。
(”反応しかできない人” からの脱皮/●常に「意見」を求められた職場 より)
過去の自分を振り返ると、わたしが先生にした質問はまさにクソリプでした。
ヨガニードラのスクリプトの中にある表現を拾い上げて「なぜ指○○本分なのですか」なんて質問をしていました。それはただ生徒らしい質問でしかなく、なんなら ”授業の内容に関心を持っています” というアピールでしかありませんでした。*1
わたしの場合は同期の人が「君はティーチャーになるトレーニングを受けに来ているんだよね? なんで一生懸命自分のアーサナの練習をしているの?」と先生から言われているのを見たりして、少しずつ理解していきました。
自分のポジションに対する自己認識があるか。
そこを理解しているときは評価され、そうでないときはバッサリ斬られる。立ち位置を明確にしないままの「それらしい質問」もバッサリです。
わたしがこの基準を理解したのは、なんでこの質問がよい質問として扱われるのだろう? と思うことがあったからです。
▼このことは、過去に記録しています
このときのわたしの状況は、以下が明確でした。
状況(ポジション)と質問がまっすぐ繋がっていたのです。
なかでも真ん中の「2.インドの神話学に馴染みがない」「3.インド三大神は知っている」という自分の知識の状況を具体的に説明したことが、質問を成り立たせていました。
あのときなんで先生から「よい質問」と言われたのか理解していなかったのですが、ちきりんさんの本の「”反応しかできない人” からの脱皮」の章に答えがありました。
こんなふうに学んできたわたしでも、意識しなければ仕事以外の場では意見を言わなくても暮らしていけます。
でもこれって、思考のエナジーが停滞していて、回っていなくて、元気じゃないんですよね。ストレスの正体って、こういうものじゃないかしら。