うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

ヰタ・セクスアリス 森鴎外 著

タイトルから全く内容が推測できない本でしたが、この書き手の金井君を好きにならない女性がこの世にいるでしょうかと思うほど、わたしのなかで金井君=森鴎外の好感度が爆上がりする内容でした。


女性にも好嫌感情や意思があるはずなのに、こんなふうに男性が望めば性の経験を済ませることができるこの仕組みはなんなのだと根本的に疑いながら、それでも実際美醜の面でコンプレックスのあった自分は、それを済ませることによってラクになった面があると、そういうことをものすごく真面目に書き綴っています。

自身を「僕は先天的失恋者」だという。


この真面目さは、ここまで真面目だと素敵すぎてどうしていいかわからない。わたし騙されてる? と疑うレベル。森鴎外は今でいうノンバイナリーだったのじゃないか、そう思わずにはいられないような描写も多くて。「キッチン」(吉本ばなな 著)に出てくる 「えり子さん」のような包容力を感じる。


そして、わざとその意味を学ばせるかのように差し込まれるアルファベットの文字綴りの仕掛けや、ユーモアのつもりで書いていたわけではないのだろうけれどもユーモラスに感じる淡白さも、いまの感覚で読むとジワジワきます。この本のおもしろさは、おもしろいと言っていいのか迷うところがおもしろい。


金井君が11歳で学校(男子校)の寮に入って、先輩に気に入られて性的に怖い思いをしたことを実家で親に報告する場面などは、まさかの展開。

僕はお父様に寄宿舎の事を話した。定めてお父様はびっくりなさるだろうと思うと、少しもびっくりなさらない。
「うむ。そんな奴がおる。これからは気を附けんと行かん」
 こう云って平気でおられる。そこで僕は、これも嘗めなければならない辛酸の一つであったということを悟った。

ちょっとーーー、お父ちゃん! この子まだ11歳よ!
この物語は各年齢ごとに性に対する発見の記録が書かれているのですが、昔は進んでたのねぇ、という印象を受けます。

 


そして本編の前後にある、この文章を書く経緯やその後の話も興味深く、大人になってからの考え方との繋がりも自然。森鴎外の文章の正直さの背景が伺える以下の主張は、ちょっとかっこよすぎてクラクラします。

僕はどんな芸術品でも、自己弁護でないものは無いように思う。それは人生が自己弁護であるからである。あらゆる生物の生活が自己弁護であるからである。

かっこつけすぎてはいけない理由の書き方が真面目。

この物語の中でも、結局トータルで自分は何回吉原へ行ったのかを書かずにはいられなかったようで、読んでいるほうが「もうええよ、大人になってからのことは……」と読み飛ばしたくなる(笑)。
そして最後の、書いた後の弁も挙動もいい感じ。


この本が出た当時は森鴎外が軍医総監でありながらこういうことを書いているということで発禁本になったそうですが、これは時代が進めば進むほど「ちょっと、それ以前に、そもそも11歳!!!」というツッコミが盛大に起こる本ではないかと思います。

春画で男性の局部が異様に大きく描かれることや「肉蒲団」という中国の小説の話を、いま社会的に偉いおじさんがどんなふうに "妙なもの" と横目に見ながら、自身の欲とすんなり合致しないことに葛藤しながら大人になったよと書いている。

 

人間らしさを失わないまま、賢くかつ自然な性教育・社会的ジェンダー教育を行おうとした時に、これ以上適切な議論題材テキストってあるだろうか? というくらい正直。

しかも「いま社会的に偉くなっているおじさんの人間としての誠実さ」が溢れている。これをケシカランと発禁本にしたあたりに、わたしは日本の権威おじさん層の内省耐性のなさを感じます。

 

森鴎外は、僕は先天的失恋者だと言いながら、それはパーリーピーポー的な人と比較した時の自分であって、いざ地味で冴えない女に慕われたら逃げる、そういう行為に罪悪感を持つほど失恋者ではないと正直に表明しています。

それはよくよく考えると「あまりにも普通」のことなのだけど、それをわざわざ書いて、しかも書かれたものがおもしろい。神的な筆力を感じます。