うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

口下手で人見知りですが、誰とでもうちとける方法、ありますか?  高石宏輔 著

日常の中にある緊張とそれがもたらす人間関係やコミュニケーションのズレについて、身体が柔らかくなれば心も柔らかくなるという視点で書かれた本でした。
これまで二度読んだ『あなたは、なぜ、つながれないのか』では人間の心理に文字数が多く割かれていましたが、この本はスワイショウなどの身体操法や身体論、ワークショップに参加した人の体験談が載っています。

 

著者は緊張をみぞおちの奥で感じると書かれていましたが、わたしの場合は心臓の奥がキュッと渋滞するような感じ。みぞおちでも、少し肋骨の中に入り込んだ奥のほうで感じます。
気が進まないけれどもしなければいけない決断や慣れない手続き、新しい契約をする時、瞑想中に未来の計画思考が始まって不安と天秤にかけるシミュレーションが始まってしまった時、アーサナの練習中に呼吸よりも少し先の挙動を捕まえようとする時、場面はいろいろありますが胸の裏がキュッとなります。(アーサナ中に起こることについては、以前書きました


この本を読み、ほんの数秒先のことでも先の心配をつかまえにいくことは「緊張」なのだとあらためて思いました。不安よりも一歩先に進もうとした段階で、まだうまく心が連動していない瞬間。
そして一瞬先の心配をつかまえにいく行為は、第三者から見てどうか。
わたしの場合、ヨガの練習中にそれが発動することは “珍しくないこと” とわかっているので驚かないのですが、日常のなかでのそれは、まだうまく変換ができません。
昨年からの生活でもそうです。オンライン会議に慣れるまでは、なんでこの人はこんな行動をするのだろうと思うことがあり、それ以上にわたしも謎の行動をしていたと思います。


わたしにはいくつか、経験をもとに自分の中で見てきた “こういう状態” を辞書登録のように記憶として溜めていることがあります。友人・知人から相談を受けた時に、ふいに口から出てきたりします。
これも以前、ここに書いていました。

 

こういう制御はコンディション次第なのだと頭ではわかっているつもりでも、職業と関係しない日常でふいに投げかけられると、キャッチすることも打ち返すこともむずかしいもの。
むやみやたらに他者を厭わしく感じないようにするには歪んだ瞬間的解釈を修正する技術が必要で、似た立場・経験をした人と話すとゆっくりそれを探ることができます。

 


わたしはヨガの練習で学んできたことを、安易に日常に置き換えてはいけないと思うことがよくあります。それを失礼なことと感じる。

この、それを失礼なことのように感じる気持ちはまだ自分の中で分解しきれていないのですが、日本語話者同士のコミュニケーションの伝承も見ていかなければいけないと思っています。
「言う通りにしてやるぞコノヤロー!」「あなたの役に立ったでしょ私、私、私ほらっ!早く感謝の言葉を出しなさい」という勢いで自分に親切にしてくれる人の前で、この緊張を生みだしているのは本当に自分か? と疑う気持ちが起きた時には、自分が偽善者に感じられるところまで自分を追い込まないように気をつけながら観察します。

 


さて。
この本には身体操法のやり方とそのワークショップの体験談が載っているのですが、付録の体験談のなかにひとつ、わたしにもまさにそんなことがあった! と思うことが書かれていました。

 自分の動きを意識し始めると、まわりの人の所作が気になります。人がどう体を動かすのか、どう振る舞うのかなどについて、以前よりも敏感になった気がします。
 いいのか悪いのか、散歩をしながら感じのいい人がいると見入ってしまうのです。

昨年ヨガ仲間と二人で上野か浅草方面のどこかを歩いていた時に、向こう側からひとりで歩いてくる感じのいい人とすれ違って、「いまの人なんか素敵だった」と言ったら「まさにわたしもそう感じていた」と。
感じがいいって、こういうことか! と心から思う瞬間でした。街の空気に溶け込んで、本人がいまこの世界に存在することに全くアウェイ感を抱いていないことが(=緊張していないことが)第三者にもわかる。とても軽やかな足取りで、表情筋に無駄な緊張が全くない歩き。

服装を見た限りではお仕事帰りのお姉さん、という感じでした。でもなんだか性別すら感じさせない雰囲気。ずっと我慢していたトイレをいままさに済ませて出てきた人なんじゃないかと、そんなふうに思うたたずまいでした。(この喩えでわかるかな……)

 


著者のおっしゃる以下のことは、何年ヨガをしていても、一般的に見たらものすごく身体が柔らかそうに見えるわたしにも刺さります。振る舞いや挙動の柔らかさというのは、自尊感情が健全な瞬間にしか生まれないから。

何かうまくいかないことがあると、誰でも自分以外のところに原因を探し、相手や環境のせいにしてしまいがちです。改善できることを自分の振る舞いの中に探すことは難しいのです。
(他人を思い通りにしようとしていることに気づく より)

わたしは練習中、滑らかに動けた瞬間に「これこれ、この感じ」と意識の状態を印象として刻むようにして、なるべくそれを日常に持ち込めるようにしているのですが、新しいことにチャレンジするときは自分以外のところにうまくできない原因を探そうとしてしまいます。
説明がわかりにくい手順がわかりにくい仕組みが理解しにくいと言いながら、自己弁護の論理の牙城を強化していく。外から見れば、ナニ様? お子様? という幼稚さなのですが、新しいことをする時はその分野において子供といえば子供だから、わからなさと甘えが混ざりやすいんですよね。そしてそこに大人のズルさだけを都合よく持ち込んで自己肯定に利用する。
自分の調子がいいときにはずっと大人のまま「これにも経緯や理由、背景があるのだろう」と思えるので、知恵(調子のいい状態を知っていること)が常に優位な状態にできるよう、気分転換の方法を多く持っておくことは、ほんとうに大切だなと日々感じます。

 


この本はいま困っている人向けというよりも、心が硬いときの自分や過去の自分をちょっと離れて思い出したい人向けと感じました。いまは対人接触も条件が複雑になりすぎていますしね。
あの時こんなふうに硬かったな自分、という振り返りは、これから想像以上に長生きするかもしれない未来を考えると、ミドルエイジの期間に棚卸しを繰り返して静観できるようになるための教材。
すべてを「自分の緊張」といったん捉えるというのは、シンプルですごくいいアイデアだと思いました。