うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

内面のコンフリクトと向き合うこと

ここ一か月の間、この感じはなんだろう…と考えることがありました。
嫌な人と自分が重なってつらい。この人と自分は同じと思うとつらい。この人はただエネルギーのあるちょっと器用な人ってだけじゃないか。外から落ち着いて見ると、そう見える。目先のことに注力してそれなりに結果は出たけれど、得たものは幻影のようなもの。そんなふうに他者と自己を重ねて振り返る時間がありました。


このセルフ・サンドバッグ的回想をもう少し深堀りすると…
その人の行動力の源は漠然とした上昇意欲と獲得意欲。エネルギーが純粋に生き方と結びつくことはなく、あざとさに似た器用さで脳と心身を効率的に稼働させる。怠惰ではないという意味で第三者からは努力家に見えるけれど、なんのこたぁない、輪っかが回れば走るハムスター。輪っかを回しているのも自分。
目標を達成しても空虚感に襲われるのは、根本的に苦悩を避けているからではないか。そんなふうに思えば思うほど打ちのめされたけれど、人間として意志がないというのはたぶんこういうことだと思うのです。


自分のずるさや巧妙さを認めるのはしんどいことで、訓練がいります。訓練をやめたら悪魔的になる。この悪魔的な方向へ陥る思考のプロセスが、5月に読んだ小説「提婆達多」に何度も細かく書かれていて、それを繰り返さないためにどうすればよいか考える機会を多く得ました。わたしはここしばらく、中勘助先生からコテンパンどころかボコボコにされていました。がっくし。あしたのジョー並みにうなだれました。

上記のセルフ・サンドバッグ的回想というのは、サンドぉ~ バアアッグにぃ~ ぅうかんで~ きぃええっっるぅ~ という状態です。今日もヤングを置き去りにしてごめんなさい。

 


さらに追い打ちをかけるように、6月から受け始めたヨーガの哲学授業(かつてインドで指導を受けた先生の授業)も似た内容で、「神的にも悪魔的にもなるこの人間というものについてはバガヴァッド・ギーターの第16章のテーマになっている」と、英語で第1~4節を読んでくれました。それをきっかけに、第16章全体を読み直しました。

 

 

パーソナルな目標がないのにやる気はあることを器用にプレゼンし、誠実そうな人間になりすます。それが常態化するとどうなるか。自分の中から湧き上がるこの危機感覚は、わたし個人の経験と記憶から生まれてくるものです。忠誠心と依存心の識別をしようとすると、この思考に陥ります。

心の中から自然に湧き上がる感謝の気持ちが確認できればスッと信仰心に近いものへ移行できるのに、その前の段階で待つ瞬間を長く感じてしまう。根本的に謙虚さが足りないのです。自分ではそのように解釈しています。

いま言語化できるのはここまでかな…。

 


授業のなかで、以下のことをしなさいと先生は話します。

 

  • 内面のコンフリクトと向き合うこと
  • 深く考え、あなた自身の文脈(背景・前後関係)を持つこと
  • 真実は既に存在しているので、それを個人的な言葉にすること

 

先生は8年前からずっと同じことを話し続け、何度も何度もいろんな前振りを設定してくれます。先生の話を聞きながら、今回は別の角度で発見がありました。
ここ数年わたしはブログとヨガクラスを通じて多くの人に出会い、その間に「あなた個人の文脈はどうでもいい。とにかく "このこと" を教えて・質問に答えて」と端的な回答を求められたり唐突な質問をされることがありました。その都度、自分自身の文脈は封じてきました。わたしはこのことについても考えました。

これらの質問はどれも自分より年配の方から投げかけられるものだったので、それまでは失礼も嘘もないように対応するにはどうすればよいかという考えがはたらいていましたが、平等に重なっていく数字としての年齢は関係なく、むしろヨガに関わったと思っている時間の量や執着の度合いによるものであると、いまはそのように解釈しています。

「焦れ」というものについて掘り下げる必要があると感じています。

 

さて。
わたしにとってヨガと日常はまるっきり地続きですべてが影響し合っています。
このたびのパンデミックのゴタゴタと重なった新しい職場でも「経緯はさておき経験から知っていることを教えてほしい。この課題を解決してほしい」と頼まれることがあり、また上記の癖(自分自身の背景は封じてやりすごす)が出そうになりました。でも今回はそこで課題の背景をないがしろにせず、かといって個人の文脈を殺すこともなく、業務と健全な関係を持ち続けることができました。
内心ふてくされながら器用にやることはやって、相手を感心させてクロージングする。そんな幼稚なことはもうしたくないと踏ん張ることができました。

 

 

  内面のコンフリクトと向き合うこと

 

 

これからのヨガの練習の場は、身体接触リスクだけでなく内面的な面においても「○○を気にすることなく、オンラインで気軽に」「余計な○○なくオンラインで手軽に」という練習機会の提案が増えていくことと思います。コンフリクトは物理的に排除することができます。
これはわたしにとって、大切なことを大切にするのか流すのかを問われる状況であり、その考えを言語化するにはまだまだ時間がかかりそうだけど、答えはすでに行動に反映され始めています。

 
先週の授業では「自分の中で起こる無意識レベルの判断」についての話がありました。そして流れはいつも同じ。これに対して行うべきことは先に書いた3つのこと。そして人間は神的にも悪魔的にもなるということを忘れないこと。
ヨガというものに興味を持ってから約15年になりますが、近頃やっと、自分の外側の世界を観察しながら同時に自己の内面も観察し、どちらも大切にするという考え方ができるようになってきた気がします。

識別って、精神的ワリキリのことじゃないんですよね。