うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

文章読本 谷崎潤一郎 著

古本屋でめくってみたらどのページも引き込まれる内容で、その日から3日間夢中で読みました。これは文章心理学とでもいうのかな。プライドと保身のために文字数が増えていく書き手の心理をすっかりお見通し。
こんなに種明かししてくれちゃうんだ…と思うことが昭和9年に書かれている。そのくらい人が文章を確定するときの「弱み」は変わっていないというのがわかる。なかでも日本人の昔の文章と今の文章と社会構造、日本語と日本的マインドの特徴、訳すときに文体が奪ってしまうもの、省略することの意味について書かれている章はそのまま丸ごと日本語コミュニケーション学の講義のよう。いまどきの自己啓発本のようにところどころ太字になっていて異様に読みやすい。読まされてしまう文章読本


わたしは今年たて続けに谷崎潤一郎の小説を読んだのですが、なかでも「春琴抄」「」「瘋癲老人日記」「」は文体や語調が物語に大きく影響しており、読み終えた後にぐへへと口から漏れそうな顔で「やられた」という恍惚と「すごい」という畏怖が同時に起こるものでした。文体に持っていかれたときはなるべくその思考やリズムを自分のなかに取り込んだまま数日過ごしたくなるくらい。この「文章読本」では小説「春琴抄」の句読点のない書きかたにの狙いが以下であると明かされていました。

 (以下、「三 文章の要素」句読点 より)

  1. センテンスの切れ目をぼかす目的
  2. 文章の息を長くする目的
  3. 薄墨ですらすらと書き流したような、淡い、弱々しい心持を出す目的

 特に最後の要素は実際読むとものすごく効果が高いと感じました。過去に情熱を傾けた自分の心情を語る時って、実際そんなふうに流したくなると思うから。

 


著者は生活が西洋化しこれまでの権威構造が崩れ言葉も文体も変わっていくことを明確に予測しつつ、心根まで西洋式を真似しなくてよいのではないかと主張をしており、それは精神の陰翳礼賛。思考は言葉でしているのだから練習しようという教えにキューンとなりました。

昔の言葉は単語の中に敬語の要素が含まれていたのでその語を選んでいる時点で主語が省略できること、短い文章の中で主体が入れ替わっても意味が通じること、相手の名前はもったいないから(存在を重んじる意味で)明示していないことなどは解説付きで説明されると納得です。わたしは語尾も主語もはっきりさせないまま話す人を見ると「曖昧な話しかたをすることで内容を棚上げし、性別や年齢だけで上に立とうとしている。ずるいやり方だ」と若いときほどたくさん感じてきたのですが、昔ほどこういう文章の組み立て方であったとなれば、その名残としての思考のあいまいさにも少し納得がいきます。


会話をしながら、文章を読みながら心の中で響かせているものは隠せない。だから人間同士のコミュニケーションはおもしろい。

そしてこの本にはひとつ、とても時代を感じる提案があります。
以下「三 文章の要素 敬語や尊称を疎かにせぬこと」から、この本を書きながら自分も(著者は)読者に対してある程度の敬語を使っているという流れ以後(太字は原文どおり)

ついては、この際特に声を大きくして申し上げたいのは、せめて女子だけでもそう云う心がけで書いたらどうか、と云うことであります。男女平等と云うのは、女を男にしてしまう意味でない以上、また日本文には作者の性別を区別する方法が備わっている以上、女の書くものには女らしい優しさが欲しいのでありまして、男の子が書くなら「父が云った」「母が云った」でも宜しいが、女の子が書くなら「お父様がおっしゃいました」「お母様がおっしゃいました」とあった方が、尋常に聞えます。で、そうするのには、女子はなるべく講義体の文体を用いない方がよいのであります。義体は、敬語を多く使うのには不適当でありまして、あれで書くと、どうしても言葉が強くなりますから、他の三つの文体、兵語体か、口上体か、会話体のうちの孰れかを選ぶようにする。私信や日記は素よりでありますが、その他の実用文や、感想文や、進んでは或る種の論文や創作等にも、女らしい書き方を用いる、というようにしたら如何でありましょうか。

おやおやおや?「鍵」という小説の妻が書く日記はそうではないよね、まるで男の人が書く本音みたいじゃなかったっけと思って読み返してみると、やっぱりちっとも敬語じゃない。「鍵」は昭和31年、この「文章読本」は昭和9年。この間に大きな変化があったのでしょうか。
数年前、わたしが「うちこのヨガ日記を書いている者です」といって出て行くヨガクラスで「ほんとうに女性だったのですね」と言われたことが何度かあり、たぶんこういう感覚って今でもある人にはあるのだろうと思います。わたしが書くような機械に認識されやすく配慮をした文章に慣れないのでしょう。なにか関係性についての理想形を設定しながら文章を読むという機能が人間にはあって、テキストを形態素で機械が見る世界には敬語=女性という識別はもちろんないのだけれど、リアルではまだまだそれが根強くある。


この本の中には言葉に自己が支配される話も書かれていて、どこを読んでも「これ、あるなぁ…」ということばかり。文章を書きながらなにか自己の定まらなさのようなものを感じたことのある人は、きっとおもしろい発見がたくさんあるだろうと思います。冒頭にも書きましたが、まるで文章心理学のような本です 。

文章読本 (中公文庫)

文章読本 (中公文庫)