うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

親しみのふしぎ

先日、一年ぶりに東京で読書会を開催したら初対面のかたが二名おいでになり、実物のわたしを想像よりもマイルドと感じられたようで、そのことを話してくださいました。

 

文章ではカタいイメージだったけれど会ってみたら違ったというようなことは以前から言われてきて、それはだいたい事前に「おてやわらかにお願いします」というニュアンスで示されたりもするのだけど、ネットの文章をきっかけとした出会いってほとんどそうじゃないかな…。会うまではなんとなく不安。わたしも逆の立場なら以前はそうでした。
でも実際ネットで情報を得た人に会ってみて、やさしそうな文章で親しみを感じていたけど実物は横浜銀蝿のメンバーみたいだったという超フェイクもなければ、ぶりっぶりのハート・アイコンだらけのブログの人に会ってみたらピンクの電話のよっちゃんみたいな声の女性だったというような超アタリもありません。

今日はそんなこんなの話です。横浜銀蝿はものの喩えなので銀蝿フォロワーもどうか怒らずに読みすすめていただければ幸いです。

 

 

知る順番が逆の場合

2006年はこのブログのページビューは100~200くらいで、実物のわたしを知っている人がブログを見つけてくれたり、メールのシグニチャにブログのURLをくっつけてお知らせしたり、「あの人あんなの書いてるんだって」というヒソヒソ話から知られていくことがほとんどでした。
当時はSNSといっても mixi しかなく、好意的な反応は「文章おもしろいね」「毎日文章を書くなんてすごい」といったもの。逆に「ふだんはあんまり喋らないのに頭の中ではいろんなことを考えているんだね。こわい」と言われたこともありました。

みんな考えてるけど言語化していないだけじゃないかと思っていたら、わたしが特別に不徳な人間のように言われ、人の感じかたには幅があるもんだなとその頃から思っています。当時は口頭コミュニケーション至上主義みたいな人の声がまだ大きくて、いわば精神的ムッツリスケベ呼ばわりに近い扱いでした。


当時勤めていたネットの会社では逆ルートからの出会いもありました。他部署の人が会社をお辞めになるときに突然やってきて「実は、ブログをずっと読んでまして」と言われました。「この人、あのブログの人なんだよな…」と思っていたそうです。基本的に日記はこっそり監視される性質のものと思っていたので、ごあいさつにいらっしゃる律義さに感動しました。

 

当時からさらっと「きのうブログにあったお店へ行ってきたよ。いいねあそこ」「あの体操で腰がラクになった」なんて具合でシームレスに実物と重ねてくれる人もいたけれど、ブログと日常の重複が一般化してきたのは若槻千夏さんや中川翔子さんがブログを気軽で身近なものにしてくれてからのこと。眞鍋かをりさんがブログの女王と言われた2004年頃は、まだ一般的には「身近な人がネットで文章を書いてる。なんか不気味」という反応をする人が多かったように思います。(わたしはブログの前は別のサイトを作っていました)

 

 

個人の中で展開される想像の足し算引き算妄想

アクティブなヨガをする人はほんとうのヨガを知らないとか、本をたくさん読む人は運動が苦手だろうとか、こういう仕事をしている人はこれについて知らないだろうとか、これができるのだからこれもできるのだろうとか、人はイメージを妄想で足し算引き算することがあります。
アーサナだけでなくインドの歴史や思想など、ヨガ周辺のわりと幅広いジャンルについて書いているのは、これらの思い込みによるコミュニケーションを避けたいと考えているためです。
それにつながるきっかけについて、以前すこし書きました。

上記のようなことは、だんだん減ってきました。

 

 

変換は読む人の中で起こる

文体というのは文字で構成する体。それもひとつのわたしの体です。
文章から受け取ったものは、各自の経験と記憶を元にその人の脳内でリミックスされています。冒頭に書いたように、文章からカタい印象を持つ人もいれば、逆もあります。

「勉強熱心でよろしい。わたしがヨガを伝授してやってもいいぞ。すごい人に引き会わせることもできる」といって初対面でいきなり本やCDを渡されて、なぜか宣伝役にされそうな展開になったり…(棒立ち)。いろんな人がいます。
実は男性なのではないかと思われていたこともあるんですよ。

おもしろいことを思う人もいるものです。

 

 

見せて見せられてを楽しんでいる

いまは動画の時代。インターネットは以前よりも実像をイメージしやすい出会いのきっかけになっています。
わたしは動画での説明をする余裕がないのですが、やっぱり練習はライブよ~☆密教よ~♡と思っています。アーサナの見本はどうぞせっかくだから好きな場所から見てくださいというふうに、そのときどきの共鳴のプロセスを楽しんでいます。

文章は改行や絵文字で親しみやすくほんわかするのが是という世界があることも知ってはいるのですが、これは向いていないみたいです。文体だけはまえに一度だけチャレンジしたのですが、挫折しました。



以上、ベースがいまひとつ親しみにくい文章になってしまう理由について書いてみました。たぶん端的にいってちょっと生意気な感じがするのだろうと思うのですが、わたしは横浜銀蝿的ではありません。冒頭の例の二択で言えばよっちゃん寄りかと思います。その二択はどうなんだといわれても困ります。実際話すとこんな事例ばかり出します。

長々と読んでくださり、ありがとうございました。