うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

悪徳もまた 宇野千代 著

すべて自伝エッセイ風で、故郷の岩国市で過ごしていた頃の話「悪徳もまた」、自己の性質を分析する「何故それはいつでも」、小説『色ざんげ』 の背景が書かれた「それは刃物が導いた」、きもののデザイン以降のことが書かれた「もう一度結婚を」が収められています。


ものすごく整った回想文で、なかでも本家からの仕送りで生きるニートのDV父さんとその三人目の妻で自分と年齢が6歳か7歳しか違わない姉のような継母、 その子供たち(弟妹)と一緒に長女として暮らす様子が書かれている「悪徳もまた」の心理描写は驚くほど緻密です。

 

共依存のメカニズムを自覚しながら演じることが常態化したような、この独特の双方視点が「おはん」を生み出したのかと思うとその自我の殺し方にぞっとする。血縁があろうがなかろうが、恨まず憎まないための工夫はマネタイズにありとでもいわんばかりの作家としての手腕、エネルギーは西原理恵子さんのそれとも似ていて、頼もしいを越えておそろしい。この、認知の機能の使いかたや意識的に記憶をコントロールしていく態度こそが宇野千代式なのでしょう。

 

 

「何故それはいつでも」の冒頭で、自身の経験から導き出された習性について書かれている部分があるのですが、これはどうにも日本語化のむずかしいサンスクリット語の「vasana」そのもの。この書き出しは何度読んでもぞわーっとくる。

 人の行為には、思わぬところに類例のあるものである。こんなことはあのときもやったな、と思うことがあり、こんなことはあのことの真似だな、と思うことがある。全くの創造的な行為と言うものはめったにない、と言うのが私の考えである。人は人の真似をする。自分のしたことの、また真似をする。子供のときに見たり聞いたりしたことの影響はながく尾を引く。おかしくなって笑うこともあるが、また笑えないこともある。

わたしはvasanaを「印象の刻み癖」というふうに説明することが多いのだけど、まさにこの感じなんですよね …。

 
「それは刃物が導いた」は小説の『色ざんげ』を読んでから読むのがよいのですが、ここで書かれている「刃物が導く」という現象も宇野千代さんの経験を踏まえた文章で読むと、異様に迫りくるものがあります。

悪人正機とは逆の正人悪機とでもいうようなことが書かれているのですが、状況が生み出すことについていきなり善悪で語ることに抵抗のある人が読むと、かなりインパクトを感じるかと思います。

 

宇野千代さんの "超客観" の視点で書かれた物語を読んでいると、複数のインド人が討論する哲学問答の書を読んでいるかのような気分になることがあります。「もう一度結婚を」の終盤にあるこの記述を見て、この人は天才なんだと思いました。

(これまでに数えたら家を13個建てていた、という前段があったうえで恩人の墓を見ながらその形について考えているときに "いま自分は14番目の家のことを考えている" と思ったという話から)

 さて、ここまで来て考えて見ると、この墓のことまでを含めて、私の一生は凡て、ものごとの色、形、その配分などを考える、言わばデザイン一辺倒の一生であった、と思うのである。本業である文筆の仕事は、決してデザインとは言えない。しかし、文章を書くとき、その起承転結がそのまま、思想の置 き方である、と思われることがある。しかし、私はものを書くとき、決してそれを意識して書く訳ではない。心に浮かんだままを、無意識に書き進めて行くのであるが、それでも、一種のデザインをしている、と思うことがある。

これまで宇野千代さんのエッセイを読んだだけで、今年はじめて小説を読んだのですが、なんのなんの。「おはん」のような完成されたものを読むと、まるで家を設計して建てるように小説を書く人だということがわかります。


もうこれはわたしのなかで何回目だろうと思う宇野千代ブーム到来。このなかに収められた「何故それはいつでも」を深く味わうために、ぜひ「色ざんげ」のあとに読んでみて欲しいです。

悪徳もまた (新潮文庫)

悪徳もまた (新潮文庫)

 

 

宇野千代さんの本でこれまでに読んだもの

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