「思索」「著作と文体」「読書について」の三篇が収められています。
全般、ショウペンハウエル先生はご立腹であらせられる…というトーンで、異様な勢い。ドイツ語がわかる人にはおもしろいのだろうな。
一冊全体が「書くことと人間論」みたいな感じで、文体とドイツ人を論じる部分がおもしろい。文章を読み書きすることに深く関わっていると、他人を見る基準がそこに設定されるというのはわりとあることだと思う。
こういう感じで、ばちっと宣言される。
文体は精神のもつ顔つきである。それは肉体に備わる顔つき以上に、間違いようのない確かなものである。
(「著作と文体」11の冒頭 より)
これ、なんかわかるなぁ。
そして、ドイツ人の文体=ドイツ人として語られる箇所がおもしろい。えー、ドイツってそんな感じなの? と思う。
ドイツ人の真の国民性は鈍重さである。歩行、挙措動作、言語、論じ方と話し方、理解の仕方と考え方、すべてがこの鈍重さを物語っている。だが特にこの特徴を示しているのは文体であり、冗長、鈍重な文章、錯綜した文章を書いて満足している彼らの態度である。
(「著作と文体」16より)
ドイツ人ほど自分で判断し、自分で判決を下すことを好まない国民はいないのである。生活も、文学もたえずそのような機会を提供しているのに、我がドイツ人は温順である。ドイツ人には怒りがない。鳩のようである。
(「著作と文体」18bより)
日本語は、どうかな。関係性を示すルールがすごく多い気がするのだけど。
この本一冊で語られていること強引に要約すると「自分のなかから湧き起こってきた思想でもないのに、表面だけこねくり回して悦に入って、おまえらバーカバーカ」と言っているような感じなのだけど、以下はすごくうなるところ。
すぐれた文体たるための第一規則は、主張すべきものを所有することである。
(「著作と文体」12より)
ただ「エッヘン」「おっほん」という気分になりたいだけの文章を読むと、これを感じる。
匿名評論家について述べている以下は、いまのネット社会にそのまま当てはまるような…。
このような匿名評論家は、厚顔無恥なふるまいをいろいろ見せてくれるが、中でも滑稽なのは、国王のように一人称複数の「我々は」という形式で発言することである。
(「著作と文体」10aより)
いまでいう「主語がデカい」というものかな。
上記に少し関連するのですが、わたしは質問の語尾にくる「〜べきですよね?」などに、主語を煙に巻きつつ便乗されたような気持ち悪さを感じます。
この本を読んでいるといろんな気持ち悪さが浮き立ってくるのですが、どれも日常ではスルーしっぱなしにしてしまいがちなこと。あとで不愉快な思いをするとき、それが口語であっても「文体で、前からこうなるとわかっていたような…」ということは、たしかにある。
著者は始終、怒っている。読めすぎる人って、いろいろ大変そうだ。
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