うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

評論家になったらもう練習の主体じゃないから、そりゃつまらなくもなる

先月ブログの引越しをしたのと同時にプロフィールの文章を書き換え、それを読んで広島・名古屋開催のクラスへ来てくださった初対面のかたとのやりとりから思い出すことがありました。

 

広島でも名古屋でも、練習への感想としていただいたフレーズのなかに「変な緊張感のなさ」をあげてくださったかたがいて(表現はいろいろ)、わたしがあまり直接的な言葉で出さないようにしてきたメッセージを受け取ってくださっていることをうれしく感じました。


何年もヨガをやっている、あるいはヨガについて気にかけている時間が長いというだけで評論家のようにヨガの話をするようになると、もう練習の主体ではなくなってしまう。そういう意識をまとった練習はそりゃつまらなくもなるという光景を、わたしはこれまでに何度か見てきたのでした。たのしく練習をしていたら、まず練習そのもののことを語りたくなるはずなのに、と。

なのでメンタル面での複雑なことについては、メッセージをオブラートに包んで書いてきました。でも見抜かれてた。見抜かれてうれしい! 

 

 


これはヨガに限らずたとえばお稽古事や会社組織などでもそうですが、行為に対して評論家のようなフレーズを用いる瞬間というのは、たぶんすでに行為そのものに飽きていて、でも関係所属欲求のようなものは残っている。「◯◯に関わっているわたし」という上着を習慣で着ている。手放せない。そんな微妙な状態。


わたしにはこの感情に似た記憶があります。中学生の時、土日に私服で学校の人に会うくらいなら体操着で出かけてしまえと判断していたときのことを思い出すのです。ちょっとジュースや雑誌を買いに行くときに、制服だと従順すぎる下僕みたいだけど体操着ならそんなふうにも見えないし、と。私服で認識されるのが怖かった。

主体的に選んだものを着ているわけではないから、服装の話は苦手。中身の面で話すことがない。そんな状態でふいに服装の話になった時に、唐突に「なんかみんなが着ているあの流行りの服って、足が短く見えるよね」なんてことを口走る。中身の面でいま話せることがないから。

 


わたしはヨガの練習を評論する人を見て、うーんそこまで言っちゃうと戻りずらくなってしまって、悪手じゃない? と思うことがこれまでにたくさんあって、自分はそれをしない理由も考えてきました。いちど敬愛したものをdisるのって、精神的につらいんです。

 

 

わたしにはそんな振り返りがあるので、評論家のようなフレーズを用いる人たちの頭の中では、わたしが中学生の頃に休日に体操着をチョイスしていた瞬間のようなアルゴリズムがはたらいているのだろうと仮説を立てています。

そのうえで、そういう状態を経験した人も楽しめる練習の場を考えています。

 

 あなたがなにをしてきた人でもいい。
 どこの学校の出身でもいい。なにものでもいい。
 今この瞬間、わたしと一緒に、これやって!

 

という熱量を大切にしています。
なんかいろいろめんどくさくなっちゃって評論家みたいに一歩離れたスタンスの口調を選びたくなる中二病マインドをわたし自身が知っているからこそ、そうしています。帰ってからも練習のことを考えたくなる、おとなになってからのそんな時間はとても貴重だから。

社会の中で居場所がなくなってしまう、居場所がないと感じてしまうことも、わたしにとって思春期とは別の背景でこれから直面していく新たな課題です。端的にいうと老害化しないということなのだけどそれはまた別のときに書くことにするとして、いまは過去に好きになったものの「好き」のエッセンスを残すにはなにをフィルタすればよいのか、ということに意識を向けています。


だいじなことだと思うので、今日は最後にもう一回念押しします。一度好きになったものをdisるのって、すごくつらいんです。記憶している過去の respect を dis とみなすことは、過去の自分を呪うこと。自分を好きになるためには、最低限そこのロジックを認めないと、先へ進めない。

ヨガは自分を好きになるツールと言えばとても耳当たりがよいけれど、教典を読んでいるともっとパンチがあります。ヨガは過去の自分を恨まないための教えであると感じるのです。その過去というのが現世(現生)だけでなかったりするのがまたインド心理学のやけに深遠なところではあるのですが、せめてこれまで記憶しているぶんの自分の「好き」を大切に抽出しながら日々を楽しんでいきたい。わたしは練習に対して、いつもそういう思いがあります。

 

 

わたしよりもヨガ暦が長いんだろうな~とか、これまでにあちこち行ってみたのかな~と思う人に練習が楽しかったといわれると、すごくうれしいです。

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なんにもしなければなんにもない空間。みなさんが居なくなったあと、ぽつんとひとりで「あれは、幻だったのだろうか」と思う時間は、わたしにとって自分と向き合う時間。

ざっくり30年前、まさに中二病で休日に体操着を着て近所へ出かけていたわたしは、いまはその3倍も生きて(まぢかー)、やっと休日に自分の意志で、自分で選んだ体操着を着ることができるようになりました。

 

 

 

以前このことをものすごくオブラートに包んで書いたのがこちら。2年前はこのくらいまでしか自分でも言語化できなかったのだけど、根っこの気持ちは変わりません。