うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

動かない練習から思うこと

先日、ヨガの練習仲間からのメッセージにあった、「こんなふうに8月になるなんて」というさりげないひとことが妙に染みて、 "動かない練習" についてあらためて思うところがありました。
わたしはこれまで、自分が主催するヨガクラスの昼間の時間の開催で、ヨガニードラというメニューをできるだけ織り込むようにしてきました。ガイドの冒頭で毎回「ヨガニードラは、モーションレス・トレーニング。動かない練習です」というフレーズを入れてきました。


瞑想の説明は言語化しにくいなか、ヨガニードラ(ヨーガニドラー)のメソッドはその土台作りにとてもよいとので、それを日本語化して続けてきました。
日本語化するときは「モーションレスは "動かない" で適切だろうか、"動くことをなくす" のほうが適切だろうか "動くことを抑える" だろうか、いや、そうするとかえって別の縛りが発生するかもしれない…」なんてことを気にして言語化してきました。実際のわたしのガイドでは「動かない練習です」と言った後に短い補足を加えています。


日本で生まれ育ってきたわたしはその教育システムの関係上、「(自ら内部から)抑制する」を「(自ら外部の制圧人格を仮設定して)抑制する」というふうに変換し対処しようとする、そういう認識の集合的慣習のようなものの中で暮らしてきたと思っています。
これがヨガを学ぶなかで気づいたインドの言葉と日本の言葉のありさまの大きな違いでもあり、観察してきました。ヨガニードラのガイドをする場合は、練習者が外部の制圧人格を手癖のような頭の癖で採用しないように、注意深く構成を組み立てる必要があると感じてきました。

 

「注意深く構成を組み立てる」の範囲は、ヨガニードラの時間の範囲だけではありません。その前のアーサナの練習、ひいてはそのさらに前の段階にまで及びます。
ヨガの教えには、変化する環境の中でそれを日常に落とし込んだときにどういう性質をもつかを再確認させてくれる示唆が多く含まれていて、これをオンザマット・オフザマットと表現する方法もよく見ます。
わたしは現在の(2020年のパンデミックの)変化の中で、自分がこれまで口にしてきた「動かない練習」という言葉が思い浮かぶとき、どんなふうに行為と結びつけようとしているかを考えます。

 

 

 STAY HOME と TO GO の共存

 

 

「(自ら内部から)抑制する」を「(自ら外部の制圧人格を仮設定して)抑制する」というふうに変換しやすい思考を持った人間にとって、これはユニークな題材です。
「わたしたちにとってユニーク」というのは一瞬意味がおかしいようにも感じられますが、やはり「わたしたちにとってユニーク」であるとわたしは思います。国ごとに成り立ちも運びも言語も統制のしかたも、それぞれがユニークだから。


自分のことばを観察すると、自分の価値観が少しずつ見えてきます。
こういうことを教えてくれるのが動かない練習であり、瞑想の練習であり、動く瞑想もまた同様で、それらの総称やメソッドをヨガといっているのだと現在のわたしは理解しています。
「わたしたちにとってユニーク」という状態について考えるなんてことを、これまでは考えたこともなかったから、これはあたらしい身体感覚です。

前に書いた、この感覚とちょっと似てるかな。

 

 

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(これはいま、2020年7月終盤の時点で咲いている上野公園の蓮。夏ね)