うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

「世間」とは何か 阿部謹也 著


夏に「ELLE」という映画を観て、それをきっかけに読んだ「加害者家族」で紹介されていた本です。
わたしは有名人の謝罪会を見て、やりすぎではないかと思うことがあります。聖職者や先生と呼ばれる職業の人の言動をあげつらう報道についても、前後の文脈が少し気になるのですが、そのまえに悪人認定が済んでいる。どこで?
そういう風習がなくならない日本の長い歴史の流れが気になって、この本を読みました。

 欧米の社会という言葉は本来個人がつくる社会を意味しており、個人が前提であった。しかしわが国では個人という概念は訳語としてできたものの、その内容は欧米の個人とは似ても似つかないものであった。欧米の意味での個人が生まれていないのに社会という言葉が通用するようになってから、少なくとも文章のうえではあたかも欧米流の社会があるかのような幻想が生まれたのである。
(28ページ 非言語の知 より)


わが国には人権という言葉はあるが、その実は言葉だけであって、個々人の真の意味の人権が守られているとは到底いえない状況である。こうした状況も世間という枠の中で許容されてきたのである。
(30ページ 知識人の責任 より)

人権て、幻想だなぁと思う。肌感として、そう思う。これはそう思ったらそこで終わりという種類のものだから、そう思ってはいけないというふうに考えるべきなのかもしれないけれど、体感として幻想であることを認めることのほうが重要な気がしています。



わたしはたまにプライベートで出会う初対面の年配の人に対して「世間の常識の要件が増えすぎて、なにもしゃべれない」と思うことがあるのですが、それはまさに、以下のようなことが気になってしまうから。

 日本の歴史の中では、古いものが堆積し、整理されることがない。しかし、同時に新しいものもどんどん入ってくる。人々の眼は新しいものに注がれるので、古いものは見えなくなることがある。しかし古いものは消え去ることなく生き続けており、私達の行動を規定しつづけている。
(256ページ おわりに より)

相手の行動規範の根っこにある思想を確認してからでないと、しゃべれない。



中世的な捌きを江戸時代でもやっていた事例も、以下のように紹介されています。

 その後の事情は必ずしも明らかではないが、藤木久志氏の研究によると、江戸末期にも(天保五年、一八三四)、新潟県長岡市の村で入札(いれふだ)が行われていたことが明らかにされている。中世では盗みや放火、殺人などの事件にさいして村人が集まって投票で犯人を決めたりする例があり、落書(らくしょ)と呼ばれていた。
(73ページ 神判のゆくえ より)

投票で犯人にされるというのは、きついですね。"いい人戦略" がうまくない人が損をする世の中って、やっぱりしんどい。



わたしはここで4年前に「悪口の受け止めかた」、3年まえに「みんなとエブリワン」というのを書いたことがあるのだけど、日本語のこういう感じはもう平安時代からあったようです。

「世評をそのまま引用することで話にリアリティを与え、言いにくいことは代わりに言わせる、引きあいに出しながら、実は自分の意見を言う」(「大鏡の方法」)、そういう形が「大鏡」には見られ、興味深い。
(56ページ 「世の人」の口を借りる──「大鏡」 より)

大鏡平安時代後期の作品なのですが、こういう根づいたやり方となると、自然にやってしまう人が多いのも、しょうがないのかな…。

「個の時代」って、日本の場合はすごくクローズドな形になっていくのが、自然な流れかもしれない。「みんな」のルールに乗せられてしまったら、それはもう「個」の集まりではないから。
この本を読みながら、そんなことを思いました。


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