うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

他力 五木寛之 著

気の発見」がおもしろかったので、他のも読んでみたくて買いました。
100の項目、100のコラムという感じ。細切れの移動が多いときにも読みやすいです。
日蓮親鸞の教えになぞらえて書かれたものが多いのですが、現代の問題との結び方に独特の世界観があります。決して「甘えていいんだよ」という内容ではないのだけど、やさしさにあふれている。答えは出ないのだけど、発することに意味を成す「書く」技術と宗教観の組み合わせって、最強かも。と思いました。
「元気が出る本」的な分類をされる本なのかもしれないけれど、「直木賞作家が仏性を表現すると、すげーわ」という読み方で楽しむと、より味わい深いです。

メモしたかった箇所を、いくつか紹介します。

<33ページ 目に見えない大きな力を実感する より>
「ナムアミダブツ」は、三つの言葉からできています。
<南無>はサンスクリット語の「ナマス(namas)」の音を漢字にしたもの、と言われます。また、ナマスのほかに「ナモ(namo)」という言葉もあるそうですが、どちらも尊敬と信頼の意味を表し、いまのインドでよく耳にする挨拶、「ナマス・テー」という言葉とも結びついているようです。ちなみに、「テー」は、「あなた」のこと。

ファニーな響きなのに、敬意が含まれている。うちこはこの挨拶が大好きです。敬意をもてない瞬間には使いません。

<65ページ いまの医療に欠けているもの より>
「チャリティ」という言葉があります。この語源はフランス語の「シャリテ」です。十八世紀のフランス革命後に出てくる言葉で、分け隔てなく人々を癒す、という意味です。
近代西洋医学の夜明けは、フランス革命から数年先立つ、パリの病院の設立にあると言われます。そこに若き情熱に燃えた医学者が集まって、"自由・平等・博愛"の精神に則って、理想的な医療をやろうと、一般大衆の治療・診療を行った。それまでの医者は、どうしても権力者のホームドクターだったから、そこから脱皮しようとしたわけです。

分け隔てなく人々を癒す、って、フランス人にしては意外(笑。偏見)。

<101ページ 先生も親もやわらかな心が欠けているのでは より>
老子は、赤ん坊は体がやわらかい、老いていくと人間はかたくなって、死ぬと体が硬直する。やわらかさが大事だとくり返し言っています。それほど、やわらかいことは、重要なことなのです。
ところが、いまの日本の社会では、物の見方や価値観がかたよっています。一方しか見なかったり、一点しか見なかったりしている。女性的なものに対する偏見もすごい。また、知的なものに対しては高く評価するのに対して、情とか涙とかをとても嫌う。
情というのは、じつに大事なことなのです。
よく情報と言います。けれども、いま流れている情報は情報ではありません。情報というのは、悲しみとか怒りといった<情>がしっかりこもっていなければいけない。けれども、一般に言われている情報というのはたんなる数字です。
本当の情報は人から人へ伝えられます。

情報というのは、悲しみとか怒りといった<情>がしっかりこもっていなければいけない。 というところが強く印象に残りました。

<115ページ 深く悲しむ人ほど強く歓ぶことができる より>
ストレスという言葉があります。最近では、適度なストレスは体によく、過度なストレスは体に悪いと言われますが、単純に大きなストレスは悪くて、小さなストレスは良い、ということではありません。
ストレスは、その両面を持っています。強く、深く、すすんでストレスを背負うような緊張感が人間には大事であり、その一方で、ストレスを吹き飛ばすほどの心のゆとりを持たなければなりません。
自分の欠点やマイナスを気にせず、振幅の大きい、自由で生き生きとした人間の感情の発露が、日常生活のうえにもプラスになり、社会生活のうえでも大きな信頼となって跳ね返ってくるのだ、と考えることが大切でしょう。

この本は2000年の本ですが、9年後になるいま、ストレスを声高に主張する行為に下品さを感じない人が増えているように思います。うちこは、「適度なストレスは、ガソリン」と思っています。
うちこが仕事の場面でもっとも下品と感じるのは、協力関係にある人へ向けられる過剰な敬語や謙譲語。1ミリのストレスも与えてくれるな、という向上心を完全に捨てきったモード。文字で見ると、げんなりしちゃう。

<164ページ 「洋魂洋才」でやれと強制される時代 より>
私たちは科学を信じているからこそ、飛行機にも乗る。しかし、初詣のときに手に入れた交通安全のお札を軽々しくごみ箱にポイとすてることには、なぜか抵抗がある。
いま日本はアメリカによって、飛行機に乗るなら交通安全のお札を捨ててしまえ、と強制されているようなものです。精神部分まで、欧米的な価値観にしたがえと強いられている。
これは大きな葛藤を生んでくるに違いありません。
そもそも和製英語だといわれる"グローバル・スタンダード"とは何か。それは経済システムや市場原理の形をとった一神教的世界観だと私は考えています。
欧米の市場原理というのは、"神の見えざる手"を前提に成立しています。市場原理がたんなる競争原理でしかなければ、それこそ弱肉強食の修羅場になってしまいますが、神の見えざる手がどこかで確かに働いているのだと人々が信じられる部分があるからこそ、市場が人間的なものとして機能してきたのです。
そういうキリスト教的な拠り所が、無意識のうちであれ存在しなければ、市場原理は成立しません。欧米というのは一見、科学的・合理的な価値観を徹底して追求しているだけのように見えますが、じつは非常に根深い宗教感覚が内包されているのです。
神の見えざる手を信じる心がなければ市場原理は成り立たない、という考え方が彼らにはあります。
いま、日本のビジネスマンに突きつけられているのは、経済論でもなく、処世術でもありません。こうした精神的な価値観そのものを受け入れろという、哲学的な問題にほかならないのです。
これまで日本人はそうした宗教、哲学の問題には触れずに、まさに技術的な部分のみで外国と接してきました。<和魂洋才>とはそのことです。
そうして世界に冠たる日本という技術立国の地位を築いてきた。今後は心の問題、信仰の問題と、否応なく向き合わなければならない時代が到来します。<洋魂洋才>にしろ、と言われているのです。

お箸を右手と左手に1本ずつ持って、お寿司を解剖するようにしながら食べているアメリカ人を見ても、「胃袋に入れば一緒ですから」と返答することを求められているような気持ち悪さ。

<182ページ あらゆるものがバーチャル・リアリティ化する より>
いまの子供たちは生まれたときから、この世は幸福と文化的な生活が憲法で保障されていると教育され、苦痛だとか寒さだとか暑さから遠ざけられて育てられてきた。ですから、自分の免疫力も低下し、他人の痛みを理解することができなくなっているのではないでしょうか。
私たちには、イワシやサンマを食べるとき、うまいと思う半面、人間はなんと残酷な生き物なのだろう、お許しくださいと無意識のうちに考える感覚がどこかに残っている。しかし、ハンバーガーを食べているときは、そういった感覚はほとんどない。ましてカロリーメイトだったりすると、まったくありません。
食生活がバーチャル・リアリティ化しているのです。
その結果、私たち大人はまだしも、子供たちは、食生活の上でも、生命の重さとそれを消費して生きている自分という存在の残酷さを実感するチャンスがなくなっています。

ああまったくだ。と単純に同調すると同時に、説明のうまさというのは、たとえのわかりやすさだなぁ、と思いました。

<185ページ 本当の心のバブルが、いま訪れて より>
最近の免疫論の中から導き出された、<地球免疫論>という考え方があります。
この理論は、地球を一個の生命体と考えて、そこに生存する草木や動物や人間を、地球が<自己>か<非自己>かを判断し、自己の一部と見なせば<寛容>し、<非自己>の場合は拒絶的に排除する、そういう考え方です。
その観点からみれば、最近の天変地異の激増や新種の伝染病の発生は、いままで人間という存在を寛容してきた地球が、どうも人間は異分子らしいと認識して、排除し始めているのではないか。つまり、人間を地球に害をなす他者=非自己だと地球が認識したために、人間への拒絶反応が起こっているのではないか、というふうに考えられるわけです。
この考え方は、恐ろしい予感をはらんでいます。

葉室頼昭さんの「神道と日本人」に出てきたアポトーシス(必要でないものは消える)という言葉を思い出しました。

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★おまけ:五木寛之さんについては過去に読んだ本の「本棚リンク集」を作っておきました。いまのあなたにグッとくる一冊を見つけてください。